名前がついたところで

なんだかここ数日、ずっとまんじりとしている。理由はよくわからない。
なんでも理由になる気もするし、結局は決定打にはどれもならないとも思う。

不調の原因ねーと思っても、なんでもないさね、と考え直す。

先日、朝日新聞のデジタル版に載っていた金原ひとみさんのエッセイについて思いを馳せる。知り合いがXでことどとくこのエッセイについてリポストしていて、たまたま目に入った。金原さんの生きづらさの話が身に沁みた。こうやって自分の中の歪な気持ちに向き合っている人なんだなぁって文章を読んで、しみじみ感じ入った。

生きづらさや心の渇きについて夫に訴えても、あまり関心がないみたいで、気の利いた返しは返ってこない。

心の渇きって幼稚だからあるんですかね。未熟だからあるんですかね。私にはよくわからない。だけど、満たされない想いが溢れて、止まらないときがたまにある。そういうときは本当になす術がない。
何を食べても、欲しいものを手に入れても、心の渇きは癒えない。この渇きには付き合っていくしかない。

発達障害と診断されて、生きづらさに名前がついたら安心するかと思ったが、結局は絶望の方が深い。まだこれならメンタルの持病だけの方がよかったとさえ思う。その話を主治医にすると「井野田さんの病気は辛いさね。発達障害の方が楽さね」と言われた。障害と病、比べてどうこうの話でもない気もするけど。

発達障害の診断を受けてから、発達障害のある職業訓練時代の友人に数年ぶりに会って話をしてきた。
仕事と育児と家事の両立に悩んでいるらしい。そりゃ疲れるわ。
聞いただけでも大変そう。よくぞ生き抜いた。
友人曰く「子どもの頃から周りから浮いてたから、鬱になる前に発達障害のことわかってて先手が打てればよかったのだけど。健康を損なってからの人生はほんと長くて苦痛だわ」とのこと。
まぁ確かにそうだよねぇ。ここ10年くらいで発達障害の認知度が上がったけど、今年四十路の我々が子どもの頃は、発達障害なんて概念はないに等しかったからね。わかりやすく知的障害の子ども以外は支援から漏れていたような。大体、二次障害でメンタルの病を背負ってから、発達障害と向き合うパターンが同世代はほとんどだ。

発達障害ではない、同じ小中の仲の良い友人と「そういや○○君はそんな感じで全く落ち着きがなかったけど、普通級にずっといたよね。今なら支援級にいる感じで落ち着きなかったよね」と昔を振り返って、共通の同級生の話を話したりもする。
「私、発達障害の診断を受けたよ」と話したら「多分、そうかもねって子もザラにいる学年だったよね」と同じ友人から納得の返事が返ってきた。「変わっている子って括りで雑にまとめられてたよね〜」と言われた「でもモツちゃんは生徒会にも入ってたね」「まぁ不登校になったけどね」などとも話す。生徒会にいた子でも多分あの子も特性もちだよなぁって子はいた。

本屋を覗けば一時期の鬱病ブームのときのように発達障害の本が売られている。
苦々しく思いながら立ち読みをする。

発達障害のある友人と「生き方のロールモデルが欲しいね」と話こんできた。
どう生きるかだな。
心の渇きと満たされぬ想い。生きづらさの名前がわかったところで解決にはならない。今後、どう立ち向かっていくかが試されているように感じる。

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