カレーライスをイチから作る
死語になった言葉に「かまとと」というものがある。
goo辞書によると「知っているくせに知らないふりをして、上品ぶったりうぶを装ったりすること。また、その人」とあり、「蒲鉾 は魚 か、と尋ねたことに由来するという」と補足されている。
死語になった理由はきっと「触れてはいけないタブー」になったからだ。
現代に生きる我々は、スーパーでパックに詰められた「刺身」や「切り身」の魚や肉を買い、コロナの影響で人気になった(らしい)「鳥の唐揚げ」のテイクアウト店に並び、焼き肉店で細かく分けられた「部位」の肉を注文する。
メニューに載った「部位」は「牛の断面イラスト」で表現され、だから「生き物としての牛」は想起されない。
「唐揚げ」にされる鳥も、「トンカツ」にされる豚も、「そうなる以前は自分たちと同じように『生きていた』事実」が、徹底的に排除・隠蔽されている。
だから、「我々人間の食用肉」を得るために屠る(*)映像を見たりすると、「かわいそう」「残酷だ」などという「哀れみ」「怒り」の感情が湧き上がる。
それは、「『生きている家畜を殺して食肉にする』と知っているのに、知らないふり」をしている「罪悪感」に気づかないよう自己防衛する感情だろう。
かくして、罪悪感を想起させる「かまとと」は、「触れてはいけないタブー」として葬られてしまった。
そんなことを思ったのは、映画『カレーライスを一から作る』(前田亜紀監督、2016年。以下、本作)を観たからである。
(2021年4月17日「所沢ミューズ シネマ・セレクション」@所沢ミューズ マーキーホール)
*「鳥獣などの体を切り裂く」、主に「食用目的で殺す」意味に使用(国語辞典オンライン)
「カレーライスを一から作る」
本作は、2015年の武蔵野美術大学にて約9ヶ月に渡って行われた、ある「課外ゼミ」を追ったドキュメンタリーである。
また、前田監督自身が執筆した同名書籍もポプラ社から出版されている(本稿での引用は全て当書籍を使用し、以降、本書と記す。また引用文の太字は全て引用者による)。
ゼミの主宰者は「グレートジャーニー」で知られる冒険家・医師の関野吉晴教授。
さて、関野さんは、そのゼミで何をやろうというのか?
そんなわけで、参加者全員で「どんなカレーを作るか」を話し合う。
ダチョウカレー。
アイデアは素敵だ。ダチョウが闊歩する校内は、確かに楽しそうだ。
それに、カレー好きの日本人としては、突飛で珍しい「ダチョウカレー」を味わってみたいと思ってしまう。
しかし、現実の行為を抜きにした「おもしろそう」という好奇心だけではカレーは食べられない。
「そんなことできるのか?」と疑問に思うだろう。
「自分はその行為に及べるか」ではなく、「(法律などで)許される行為なのか」と。
「かまとと」という言葉を葬った日本人は、そういう行為は「自分たちとは違う、特殊な人しかできない」と思い込んでいるが……
ダチョウを飼う
こうしてダチョウカレーを作ることになったゼミ生たちは、専門家などを訪ねて勉強した後、3匹のヒナを迎え入れた。
しかし、ダチョウは「世界で一番大きな鳥だけど、一番気が小さい鳥」で、専門家によるとヒナの生存率は2%程度だという。
大学生ではヒナの飼育は無理と判断し、ある程度成長するまで、その専門家に預けることにしたが、わずか1ヵ月で、3匹とも死んでしまう。
ダチョウは飛べない。だから、骨折などで立てなくなるとエサがとれず、死んでしまう。
だが、福田さんによると骨折ではないという。
それほどまでに、ダチョウはデリケートなのである。
計画変更。本当に殺せるのか?
かくしてダチョウカレーは頓挫し、計画変更を迫られた。
野菜カレーという選択肢もあったが、みんな「肉」にこだわった。
ゼミ生たちは新たに2匹の「烏骨鶏」 と、 1匹の「ホロホロ鳥」のヒナを迎え入れ、今度は大学構内で飼育することにした。
小屋を作り、餌やりや小屋掃除をする。
死なせないように、世話をする担当者を決め、餌やヒナの様子などを細かく記した連絡ノートで情報共有する。
(観客を含め)みんな、3匹のヒナたちを「自分たちが食べるために育て、やがて殺さなければならない」ことは承知している。
承知してはいるが……
世話をしていくうちに、ホロホロ鳥は学生たちに懐き、膝や肩に乗るようになる。
『こんなになついてしまって……。できることなら、もうペットにしてしまいたい。そんなふうに思ってしまいます』
烏骨鶏は卵を産み始める。
『これからまだ卵を産みつづける成長なかばの鳥を、私たちの都合で殺してしまっていいのでしょうか?まだ生きつづける鳥の命をまっとうさせるためには、卵を産む間は育てていくべきではないでしょうか?』
関野さんとゼミ生たちは「殺すか殺さないか」話し合いをする。
それまで3匹の可愛さに和んでいた映画の観客も、「自分ならどうするだろう?」と自問しながら話し合いの行方を見守ることになる。
最終的に3匹の鳥は、「最初から食用として飼っていた『家畜』であって『ペット』ではない」との結論に至る。
話し合いの後、殺さない派だったゼミ生が言う。
『やっぱり生き物って、人間の都合で処理されてしまうものなんですね』
関野さんが応える。
『ペットを殺さないというのも人間の都合だよね。かわいいから殺さない』
この「殺さないのは正しいこと、殺すのは悪いこと」という考え方が、屠殺に対して「かわいそうだ」「残酷だ」というクレームになり、「差別」へとつながるのである。
屠場で働く人に対する「差別」
3匹の鳥を屠る前に、ゼミ生(と映画の観客)は「芝浦屠場」の職人を招いた特別講義を受け、屠殺について理解を深めている。
特別講師の芝浦屠場・栃木裕さんは、自分たちの仕事をみんなに知ってもらいたいと言う。
『ぼくらの仕事は、動物を殺しているということで、残こくな人だと思われたり、特別な、差別的な目で見られたりすることが多いのです』
別の職人さんが言う。
そして、こう訴える。
『ぼくがめざしているのは、自分の子どもがおとなになったときに、この仕事がふつうのこととして理解される社会になっていることです』
我々は3匹の鳥が屠られる場面から目を背けてはならない。
その上で、改めてきちんと考えてみる必要があるのではないだろうか。
「いただきます」
この言葉に込められた、とても大切な意味について。
野菜、米、塩、食器まで
本稿は「食肉として生き物を屠る」ことについて書いてきたが、肉だけでは「カレーライスを一から作る」ことはできない。
当然、野菜なども必要である。
具材の「ニンジン」「タマネギ」「ジャガイモ」。
スパイスになる「トウガラシ」「コリアンダー」「ショウガ」「ウコン」。
どれも、「F1種」ではなく「固定種」を使用している。
「固定種」の利点は自家栽培、つまり、今年採れた種を翌年に蒔くことができるという点だが、その代わり外的要因に弱く、品質や生育が不安定になる(自家栽培については、2020年12月の種苗法改正で規制が厳しくなった)。
一方、「F1種」は市販されているほとんどの野菜の元になっているもので、「固定種」と真逆の性質を持つ。
種に興味がある方は、下記の拙稿を参照されたし↓
化学肥料を使わないという条件下で「固定種」を育てるのは大変なことだ。
実際、野菜担当のゼミ生は、周りの個人菜園のものと比べて極端に悪い生育に愕然とし、化学肥料の誘惑に負けそうになる。
「米」も自分たちで田んぼを耕し水を引き、田植え、雑草取り、収穫、脱穀、精米する。
三浦海岸まで出向き、海水から「塩」を精製する。
「食器」も自分たちで作る。
土を捏ね、野焼きし、土器のカレー皿を作る。
竹を削り、スプーンを作る。
(美大生だからといって全員が造形できるわけではない、というのは意外と忘れがちな事実だ)
さて、9ヶ月を要したカレーの味はどうだったか?
映画からは実際の香りや味は伝わってこないが、ゼミ生たちが楽しそうに食べている姿が全ての答えだ。
おまけ
本作上映後、前田監督と関野氏による対談が行われた。
本編と関係がないところで、興味深かった話。
大学では動物を飼ってはいけないらしく、「鳥を飼うために鳥小屋を作る」と申請しても許可されないのだそうだ。しかし、無許可で鳥小屋を作り、鳥を飼ってしまえば、それは黙認されたのだそう。
しかも、年末年始など大学全体が閉鎖される時期の入構許可申請の理由に「鳥の餌やりのため」と書いたのに、それはすんなり承認されたらしい。
「『鳥を飼う』というとダメって言われるけど、『飼ってる鳥に餌をやる』というのは許可される」
…日本の「お役所的事なかれ主義」を垣間見る。
参考になる映画
屠殺については、『ある生肉店のはなし』(纐纈あや監督、2013年)というドキュメンタリー映画がお勧め。
実際の屠殺がどのように行われるか、職人がどんな気持ちで屠っているかを知ることができる貴重な映画。
これを観れば「差別」の気持ちなんか起こらないはずである。
『ブタがいた教室』(前田哲監督、2008年)は、小学生が学校で「家畜」として豚を飼い、最後、屠殺するか生徒が討論して結論を出すという、劇映画(妻夫木聡主演)ながら半ばドキュメンタリーのような映画。
「命をいただく」ことについて改めて考えさせられる。
タネ及び改正種苗法については、『タネは誰のもの』(原村政樹監督、2020年)が参考になる。