映画『あんのこと』(完成披露舞台挨拶付先行上映)
現実に起きた事件をモチーフにしています。
映画『あんのこと』(入江悠監督、2024年。以下、本作)の冒頭のテロップに身構えそうになる。
冒頭の主人公・杏の表情と、続く退廃的なシーンに怯みそうになる。
しかし、身構えることも怯むことも、してはいけない。
それでは本作が見せたいものを見られなくしてしまう。
冷酷な言い方だが、本作は「映画」だ。
スクリーンの中の杏が、どんなに酷い・辛い状況に陥っても、手を差し伸べるどころか、背中をさすってあげることさえできない。声も掛けてあげられない。
我々観客に出来るのは、彼女を見守り、彼女に起こったこと、彼女がしたことを、座席にどっしり座って、目を逸らさず、ちゃんと受け止めてあげることだけだ。
自分にそう言い聞かせながら、スクリーンと対峙する。
本当に悪い人はいない、なんてことは言わない。
でも、「誰々が悪い」と犯人を特定し糾弾したところで、実在した杏の境遇は変わらなかった(だろう)し、本作の狙いもそこにはない。
上映前の舞台挨拶に登壇した多々羅役の佐藤二朗と桐野役の稲垣吾郎は、「二人は本気で杏を救いたかった」と語った。
その言葉に嘘はないことは、観ればわかる。
でもきっと、多々羅や桐野だけでなく、現実世界に生きる我々を含めた皆がちょっとずつ悪くて、或いはズレてて、その「ちょっとずつ」が「社会」という大集団の中で許容できないほどの歪になってしまう。
その犠牲になるのは、歪でゆがんだ「社会」から漏れ落ちてしまった杏や母親(河井青葉)のような人々であることが多いのが現実。
本作はただ、「その現実を知って、その人たちに起こったこと、起こっていることを受け止めて欲しい」という想いで作られている。
でも、それでは救いようがないし、現実も変えられないではないか。
そう悲観しそうになる。
しかし本作は、ある意味、杏がもたらした「希望」で終わる。
つまり皆、ちょっとずつ悪くて、ちょっとずつ良いのだ。
杏が誰かの「希望」となったように、我々も誰かの「希望」になり得る。
その「希望の光」が、漏れ落ちた人を照らすサーチライトとなる。
照らされた人たちは、スクリーンの中ではなく、現実、目の前にいる。
その時我々は、自分の手を差し伸べることができる。
メモ
映画『あんのこと』(完成披露舞台挨拶付先行上映)
2024年5月8日。@イイノホール
本文で『目を逸らさず』と書いたが、本作、目を逸らすことさえできないほど、自然に引き込まれる。
それは、ほとんどが手持ちカメラで撮影されている(撮影:浦田秀穂)からで、そのカメラの動きと揺れは、そのまま杏を見守る我々の視点となる(ただし、後述する唯一の時間軸の入れ替え後、見守る視点は段々遠のいてゆく。最終的に自宅のある(恐らく)公団アパートの階段のところで別れてしまう。カメラ=視点は、階段を上がる杏を見上げる(見送る)かたちになる。その後、杏が部屋に入ったシーンからは、ほぼドキュメンタリー、或いは、三隅紗良(早見あかり)に経緯を説明しているかのような構成になっている)。
引き込まれるのは物語の構成も関係していて、冒頭のシーンは別として、本作はほぼ、時系列に沿って進んでいく。唯一逸脱するのは、唐突に三隅紗良が挿入されるシーンで、だから、上述したように、そこからは紗良に経緯を説明する回想、と捉えることもできる。
本作、カメラワークも良いが、音響デザイン(音響効果:大河原将)も素晴らしい。
驚いたのは冒頭シーンに続く、退廃的な部屋のシーン。
正面からは小さく女の喘ぎ声が聞こえ(その喘ぎが激しくなるにつれ、音量が下がっていった気がする)、サラウンドからは耳障りな音楽というかノイズのようなものが終始鳴っている。男の注射シーンと相まって、何も説明しなくても、ここで何が起こっているのかわかってしまう。
また、日常の環境音、生活音も綺麗にデザインされていた。だからこそ、コロナ禍に入ったときの静けさが逆に不気味で、それがあの時の不安さ、不気味さを想起させるものとなった。さらに言えば、母親に見つかって連れ戻されるバス車内の杏のシーンが全く無音なのも、彼女の心境を表現していて素晴らしかった。
『冷酷な言い方だが、本作は「映画」』
と本文に書いたが、最終盤、半狂乱の杏がベランダに出てしまうシーンで、彼女を止められない歯がゆさと無力感に『「映画」の冷酷さ』を恐ろしいまでに実感した。
観終わってスッキリするような映画ではない。
でも、本作から感じ取った「歯がゆさと無力感」は、逆に言えば、現実世界における「希望の光」に転化する可能性を秘めている。
映画『あんのこと』は、2024年6月7日、全国公開予定。
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