見出し画像

自分を愛することと、自分に厳しく在ることは矛盾しない

この忘れっぽい性格と、しっかり生きている筈なのに視界が常にぼやぼやしていて心が死んだような状態はどうやって直せばいいんだろう。
まるでVRゴーグルをつけて、この身体が送っている人生を追体験しているように感じる機会がますます増えてきた。そういう時は、身体にある傷を見たり、少しだけつねったり叩いたりすることにしている。

今、ここに、僕は、生きている

そう思いたくて。タトゥーを入れようと思うのもこれが理由だったりする。体系化されていない世界に向き合うと吐き気がして、全て体系化したくなる。でも、混沌とした世界で時間をかけて何かを身につけることを「経験」や「知恵」とよぶ世の中では体系化なんて、生活の足しにならない。少なくとも24歳の今、僕にそんな時間はない。だから逃げるしかなかった。

身の回りにある情報をベン図で整理してあげて、ふわふわ浮いている言葉および上位に位置する概念たちを、そっと適切な位置に置き直してあげたいって欲を、ぎゅぎゅっと抑え込む。

こういう欲を一旦抑え込むと、他の部分に制御が効かなくなってくる。食欲に歯止めが効かなくなったり、金銭感覚がおかしくなったり、社会的にずれちゃったり。
もしかして、地球もそうだったりするのかも。例えば富士山をえいやっと地面に押し込んだら、どこか知らない国の平野で標高3,776mの山が隆起するのかもしれない。immortal mountain なんて呼ばれていたら、もっともっと面白い。そんな現象が起こるなら、シドヴィシャスも後6年は生きていたのかも。

体系化しないと気持ち悪いのは、物事を覚えるのが苦手だから。大切な人との思い出も、友人関係も、家族との距離感も、弟のことも、自分の核となる考え方も、彼女との会話も、最も大事にしている暖かな原風景も。頭の中で川が流れるように、全てのフィルムが音も立てずに回り続けて、記憶が少しずつ焼けていく。

あの人との会話が思い出せなくなって、
あいつと行った場所が思い出せなくなって、
家族との距離感も思い出せなくなって、
弟がどういった人間だったかも思い出せなくなって、
彼女との思い出も思い出せなくなって、

覚えているのは人のいない景色ばかり。

風景だけはちゃんと覚えているのに、あなたたちの顔だけがはっきりと思い出せないのです。いつだって、人の力を借りないと何も思い出せない僕は、思い出っていう大事なポーションを持っていないから、ここぞという時に、空っぽな自分に気づく。

・一人でいるのが好きです。

・夕焼けの残り香を、冷たい空が名残惜しみながらも、世界を緑に沈めていき

・家に帰って誰かに会いたくなるような肌寒さがやってくるような時間に

・熱々の深煎り珈琲を握りながら、ベッドに座って音楽を流す

・何を考えるでもなく、ただぼーっと珈琲に侵されていく

・そんな時間を最も愛していました。

この瞬間だけ、僕は他の誰でもない僕で、カフェインを含んだ熱い液体が喉をすぎ、胃から全身に染み渡っていくのを感じながら、自分と世界の境界線を引くことができる。思えば、僕は境界線を引くのが、とても苦手だった。

「勝ち/負け」「陰/陽」「強/弱」「高/低」

人間に境界線なんて存在しないと思っていた。
でもこの壮大な、冷たく見えるが本質的には暖かい、ものすご〜く不器用な社会というシステムの中では、やはり境界線が必須なのです。
境界線を作らないと、体系化が為されないから。
だけど、境界線は人間につけるものではない、情報や概念、物事につけるものだって心の底では、いまだに僕は思っているもんね。


自分を愛さないとダメだよ

そう、周囲の人に何度も言われて、彼らの言う「愛する」を実践してみた1年間だった。結果、僕の心は死んだように思う。完全に死んだのではなく、仮死状態に近い。

「自分を愛することは自分を大切にすることだよ。」
「自分を甘やかすことだよ。」
「こう言うふうにするんだよ。」
「私はこうだから、あなたもこうしてみなよ。」
「そんなふうに生きていたらしんどいよ。」

そのどれもが本気で僕のことを思って、投げてくれた言葉だった。
十二分に理解しているし、本当に感謝している。
こんな自分を、日常のどこかに一瞬でも思い出してくれて、考えてくれている人たちが、こんなにもたくさんいてくださることに超絶感謝している。らぶ。

だけど、どうやら僕には僕の、僕だけの「自分の愛し方」が’あったみたいです。人と人の間に境界線が引けない僕は、どうやってもあなたたちになりすぎてしまう。恋愛感情や友情関係や、依存関係とかそういう枠組みではなくて、1人の人間として周囲の人間を再現してしまう。

これは僕が未熟だったから。僕の問題なのです。
好きだった自分の感性すら、いつの間にか枯れてしまって。
水をやらなかったことではなく、水をやれなかったことを言い訳にしてしまった。

残念なことに、不幸なことに、
僕たちの生活の中にはたくさんの言い訳が用意されているらしく、逃げようと思えばいくらでも言い訳ができる。
僕はどんどんどんどん自分自身との約束を反故にしていきました。

だからきっと、全て自分自身からの復讐なんだと思う。

自分だけのやり方で、自分を愛そうとしなかった自分への、自分からの復讐。反逆、リベリオン。解放を望む小さな僕は、今もどこかで泣いているんだろうなあ。


僕にとっての自分の愛し方は、

「強く在ろうと努めること」

です。

自分や他者に甘えるだけが、自分を愛することではなくて、
毎日、自分を大好きで愛せるように、自分のことを一番尊敬できる自分自身であり続けるために、日々の姿勢を大事にしよう、そういうことです。
少しずつ培ってしまった悪い姿勢が、生活習慣病や身体の歪みを引き起こすように、

言葉との向き合い方
人との向き合い方
そして、自分との向き合い方

その姿勢の1つ1つが、きっと人生を形作るんだろうなって思います。

だからこそ、タイトルにもあるように矛盾しないと思うんです。
自分にとことんまで厳しくしていても、それが僕の愛し方であって、
自分の愛し方にきっと一般解なんて通用しないから。
こうやって失敗して、遠回りするのもまた人生で。
これもまた一興なんだよなって思います。

■□■□■□■□■□■□


ここまで枯れてしまった自分に気づくことができたのは、紛れもないあなたのおかげです(下の記事)

あなたは気づいてないかもしれなけど、あなたのおかげで僕の探し物は見つかりました。ずっと、息苦しかった。僕の求めているものは世界に存在していないと思っていた。だけどあなたがそれをくれて、生きていたいと本気で思うようになった。脳でも、思考でもなく、お腹の少し上あたりがそう感じた。ずいぶんと長い間、押し殺してきた自分の感覚、絶対性にようやく気づけた気がした。まるでラブレターじゃないか、こんなの。でも、あなたが見ればそうじゃないってことはしっかりとわかってくれるはず。

過去の記事を読み直してみると、あなたとの関係に予感はあったらしい。

半年前の自分は、ここまで大きな革命が起こるとは思ってなかったかもしれない。でも、論理や思考だけではない感覚的な自分は、そうやって思ってkれていたらしい。素晴らしい。「僕」はまだ死んでいないことにほっとした。


気の向くままに書いていたら、随分と長くなりすぎた。
研究も、仕事も、(彼女以外との)人間関係も、将来も、人生も全てどうでもよくなりそうなここのところ。どうやら書くことだけは時間を忘れさせてくれるらしい。

書けば書くほど、僕の大好きな僕に戻れるような気がする。

書かないとなあ、もっと。


この2曲で、「Who am I??」を説明できるなと最近感じてる。
ちょっとずつ、戻ってきたかもしれない。


168


この記事が参加している募集

BOOKOFFで110円の文庫本を買います。残りは、他のクリエイターさんを支えたいです