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言葉にならない「孤独」を抱えて

先日、カーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』を読んだ。

読んでいる間、ずっと息がつまりそうだった。私は退屈していて、どこに行きたいわけでもなく、こんな本なんてさして読みたいわけではないのに、だけど他にやるべきこともない。

12歳の主人公、フランキーも終始同じ気持ちだった。気怠い真夏に彼女は退屈し、どこかに行きたいのにどこに行けばいいかも分からない。伸びすぎた身長と夢見がちな性格のせいで自我が閉じて肥大している。

その「気の触れた夏」、ある意味で彼女は特別な経験をし、ある意味ではごく普通の十代の夏を終える。

自分が何者で、どこに向かおうとしているのかがつかめない。自分のなかで何か強くて大きなものが蠢(うごめ)いているのを感じるのに、それをどうしたらいいのか分からない。誰かに伝えたいのに、それは決して言葉にならない。そんな孤独を、それが孤独だとも知らずに日々をやり過ごす。

こうした葛藤は、きっと誰もが言葉にできないまま忘れてしまう経験ではないだろうか。

マッカラーズはかつて自分が経たそんな孤独との邂逅を、フランキーという少女に託して物語る。夢見がちでまだ何も知らないフランキー。この世界の成り立ちも、自分という存在の立ち位置も、諦観や人生の悲哀も、何もかもをこれから知るであろうフランキーに。

私は正直なところ、驚いている。

というのも女性がこれを書いたことが信じられないからだ。

決して男女差別をしているわけではなく、女性が大人になってから十代の記憶をたどるという作業は不可能に近いんじゃないかと私は個人的に思っている。

特に、こうした繊細で言語化が難しい感情の襞(ひだ)を、大人になってから表現することは難しいように思う。

なぜかというと私自身、どこかで少女の自分に明確な線引きをしてしまったように思うのだ。

大きな変化には血を伴うというように、女性は初潮、処女喪失、出産と、大きな転機に必ず自身の血を伴う。物理的に血が流れ、そして精神的にもやはり血が流れるのだと思う。

少女はいずれ大人になる。たしかに何かを失って、過去の自分に永遠の決別をするように思えてならない。二度と戻れないと知りながら、彼女たちは大人になるのだ。


だからこそ『結婚式のメンバー』を読み終わったとき、すっかり大人になった私は、感覚の焦点がどうしても合わなかった。読み終わってしばらく天井を見上げた。その晩に風呂に浸る頃になってわずかに焦点が合い始めた。

そして、私は久方ぶりに昔の自分を眺めたように思う。

決して今の自分を重ねるのではなく、まるで潜水艦の丸窓から深海を眺めるように昔の自分を見た。かつて少女だった私自身の姿を。

そして思った。

そうか、私は孤独だったのだなと。

言葉にならない「あれ」は「孤独」だったのだと。

私はこの小説を読んで、ビートルズの『Nowhere Man』を思い出した。

『ひとりぼっちのあいつ』と邦題のついたこの曲は、決して特別な変わり者を歌っているわけではない。

誰の心にも棲んでいる孤独な自分を歌っているのだと思う。

どこにも属せず、どこに行けばいいかも分からず、自分に何が足りないのかも知らないで、わずかの"当て"もなく、そこに座り込んでいる孤独な自分。

そしてジョンはこう言う。

「Isn't he a bit like you and me?」(なんだか、君や僕みたいだね)

囁くようなジョンのその言葉に救われるような気分になるのは私だけだろうか。きっと、私だけではないはずだ。

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