長くて退屈な小説を読むことの喜び
数学で「相似(そうじ)」という概念がある。
大きさだけが違う、まったく同じ形の図形同士を「相似する」という。
私は長大で静かな小説を読むと、いつもこの相似のことを考える。
というのも、静かで長い小説を読むという行為は、人生を生きることと「相似する」気がしてならないのだ。
人生という大きな三角形があり、小説という小さな三角形がある。
それらは大きさこそ違えど、形は同じなのだ。
この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものなのだ。(『海辺のカフカ』)
先日、カーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』を読んだ。
どこまでも静かで、そして長大な古典小説だ。
これを書いたのは、およそ100年前にアメリカに生まれたわずか23歳の女の子だ。
正直なことをいえば、読んでいてワクワクするような話じゃない。多くの人がおそらく途中で読むのをやめてしまうタイプの、いわゆる「退屈な」小説だ。
しかし、それが驚くべきところなのだ。
わずか23歳の女の子が、どうしてこんなに老成した視点で人生の悲哀を静かに書き綴ることができたのだろう。
読み進めるほどに若き作家のあまりに成熟した視線と、目を逸らすことなくその身に人生の悲哀を引き受ける度量の大きさに感服するほかない。
そして、部分的にではあるにせよ人生の早い段階で老成してしまう種類の人間がたしかにいることを知る。それが本人にとって幸福なことなのかは関係なく、そういう人間はたしかにいるのだ。
『心は孤独な狩人』は、1週間ほどかけて読んだ。
仕事終わりや、週末のちょっとした時間に少しずつ読み進めていった。それは私にとって幸福な時間だった。
静かで長く、ある意味退屈な自分の人生から、別の大きさの静かで長く退屈な物語に移入して、私はゆっくりとコーヒーを飲み続けた。
そこでは雑音が消え、時計は時間を動かすことをやめ、物語だけが着実に歩を進めていった。
右側のすでに読み終わったページの厚さと、コーヒーカップの増えた空白の分だけ私は時間を吸収していった。
この独特の時間感覚は、こうした長くて退屈な小説を読むとき以外にはあまり得られない。
そして、おそらく本来的には人生はこういうものなのだろうと思う。
私たちの時間を進めるのは時計ではなく、おそらく読んだページの厚さやコーヒーカップの空白といったものなのだ。
分厚い古典小説を読むとき、私は小さな三角形をとおして自分自身の大きな三角形を違う視点で見ることができる。
それは静かで長くて退屈だけれど、どこまでも飽きることのない営為のように思われる。