午前と午後のあいだで。あるいは過去と現在のあいだで。
今日、午前の仕事にひと区切りつけた私はひとりですこし遅めのランチに向かった。
いつものイタリアンレストランは混みあっていて、10分ほど待ってからカウンター席についた。
弓型のカウンターには、ほかに夫婦らしき若い男女が一組座っていた。
注文を終えた私は、鞄から読みかけの『心は孤独な狩人』を取りだした。二段組の長編で、時間を見つけては少しずつ読み進めている一冊だ。
私はひとり、その本を置いたり開いたりしながら前菜、メイン、そしてコーヒーと小さなデザートを食べていった。
その間、同じカウンターに座る男女ふたりは何かを楽しそうに話したり、あるいは少し意見が合わずに苛立ちを見せたりしながら、同じように前菜、メイン、そしてコーヒーと小さなデザートを食べていった。
前菜のサラダを食べるカトラリーの音で、ふと私は昔の恋人と芝浦のイタリアンレストランで食事をした夜のことを思い出した。
「連れていきたい店がある」
会社の近所に好きなイタリアンレストランがあると話した私に、彼がそう言ってくれのだ。
彼がそう言ってくれたことが嬉しくて、私はいつもよりすこしおしゃれをしたことを覚えている。
今となっては理由が思い出せないのだけれど、私たちはその夜ケンカをしてしまい険悪なムードのなかで食事をした。たぶん、本当にささいなことが原因だったのだろうと思う。
それぞれのカトラリーがぶつかる音と、ボトルのワインを注ぎ足してくれる女性の明るい声がやけに大きく響いていた。
その彼とはケンカが絶えなくて、私はかなりの労力をその関係に注いでいた。
似たもの同士で、救いようのない頑固者で、どちらもほんとうに不器用だった。
「結婚がしたいから別れたい」
唐突にそんなことを言って、私は彼との短くない(そしておそらくどちらにとっても浅くない)関係を終えた。
カウンターの若夫婦を視界の端に捉えながら、私は『心は孤独な狩人』を読み続けた。
そして、結婚しなかった彼のことを思った。
私は本当に結婚がしたかったんだろうか。
不思議なことに、視界の端に映る彼らのように自分がなれるとは思えなかった。
私は、同世代の女の子のおそらくほとんどが知りもしない長大な古典をひとりで読んでいる方が落ち着く人間なのだろう。
そしてひとつの馬鹿げている考えが頭に浮かんだ。
「私は結婚がしたいんじゃなくて、ただ、ひとりで本を読みたかったんじゃないだろうか」
彼といると考えるべきことや感情の波がいつも押し寄せてきて、それらは終始私を落ち着かせてくれなかった。そのせいで私は静かに本を読むこともできなかった。
本を読みたくて恋人と別れるなんてことがあるだろうか。そう思いながら私は食後のコーヒーを飲んだ。
いずれにせよ、私は"こちら側"を選んだのだ。ケンカでもしたのか急に口数が減った若夫婦を横目に私はそう思った。
そしてずしりとした大きな本を手に、およそ100年前に生まれた二十歳そこそこの女の子がこんなに静かで悲哀に満ちた物語を書き綴った奇跡に想いを馳せ胸が熱くなった。
食事を終えて会社に戻る途中、舗道にたくさんのどんぐりが落ちていた。
どんぐりなんてどこから、と思って上を見上げると丈高い木の枝の間に可愛らしい実がいくつもついていた。
それを見て私はなんだか胸が躍る心持ちがした。そして同時に深い寂寥も感じた。
悪くない。
いずれにせよ、私は"こちら側"を選んだのだ。
悪くない。
そう、ひとり心で唱えながら私は午後の仕事に戻っていった。