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ダブルレインボウ

折り畳み傘をやや大げさに振り露を切った。空をさっと洗うような一瞬の通り雨だった。
私は秋の盛りを越えたあたりのこの頃が一番好きだ。
凛とした空気はどこまでも透明を保ち、空を見上げたらその清々しさに自然と背筋が伸びてしゃんとする。
さらに今日なんとなく嬉しいのはバッグにウエハースが一包み収まっているから。

父さんがウエハースを食べたい食べたいってね、と母が身づくろいを始めた。
父の咳は日増しに酷くなりあとどれくらい一緒にいられるだろうか。
私が行くよと言うと、母はショールを慣れた感じで首に巻きながら、こないだスーパーで探したけどなんでも売ってそうに見えてこんな簡単なものがないんだよねえ、とはぐらかした。
一度諦めたウエハースをあの日はそれだけを求めに母は出かけた。

いったいあの日はいつのことだったのだろうか。
足を止めて指折り数える。
えらいものだ。
久し振りに日本に帰ったわが身は日本の時間をうまく数えることができない。季節の起伏のない国でしばらく暮らすうちに季節の移ろいで時をカウントする体内時計が働かなくなっている。
そうよね。四年は経つよね。
さっき電話で聞こえた母の声は少し年をとっていた。

母が息を切らして帰ってきた。
クリームを挟んでいないウエハース、という父の出したお題はなかなかに厳しかったらしくあちこち訊ね回って製菓材料店で手に入れたという。
母のガッツポーズを生まれて初めて見た。

母がその包みを開いて小さく割ったウエハースを父の口元に運ぶと父は、すまん、と弱い声で一言だけ呟いた。
部屋のあまりに静寂なのが嫌なので私は父に「そこ謝るところじゃないよ」とおどけた。
窓から射す夕暮れの光で逆光になって表情がよく見えなかったが母は、ごめんごめん、喉が詰まるよね、お茶でも入れましょうか、とすぐさま台所に引っ込んだ。
お互いに謝りあう始末。どうしようもない。
いつまでも忘れられない二人の風景。

最後の角を曲がったところで声こそあげないが思わず口がわあと開いた。
家まで続く見晴らしのよい一本道の向こうに大きな大きなダブルレインボウがかかっているのだ。

あの時のシーンがフラッシュする。
父の動きは全く同じことを繰り返したが、母に伝えたい言葉が見えている。

ありがとう

照れ屋同士の父と母。

私は子どものように家まで駆けて行った。