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沖縄と本土の聖地を比較して見えてきたこと《1》【聖地巡礼小話 15】

沖縄の聖地の特徴

沖縄には、人神より、自然をそのまま祀った御嶽(うたき)が多い。小さな島に数え切れないほど存在する。

御嶽とは、沖縄独特の聖域。鳥居や立派な社殿はない。「山中や森のちょっとしたスペースに、香炉が1〜3つ置いてある」だけだったりするところも少なくない。王朝に庇護されていた琉球八社を除いては。一部、鳥居が設けられた御嶽も存在はするけれども、それは戦後のことだという。

御嶽は、その素朴な形態とは裏腹に、本土の神社仏閣とは比較にならないほどの物凄く強力な磁場を形成しているところが多い。感覚は人それぞれなので、一概に断言できるものではないが。

そこで「なぜだろう?」と、私なりに考えた。

恐らく、島民の多くが目に見えないもの(先祖等の霊魂含む)を自然と受け入れていて、代々祈りを捧げる文化・風習が継承されているからだろうと。思念は、磁場を形成するから。

だが、そんな沖縄でも「香炉が盗まれた」などという驚くようなニュースを、最近時々耳にすることがある。

本土の聖地から感じたことと御嶽との比較

本土は、自然より人神を祀った聖地が多いように感じる。「人神を祀る社・寺院」か「奥宮や奥之院(ご神体=山・海・川・岩など)への遥拝所」のどちらかであろう。

御嶽の形態に慣れてしまうと、神社仏閣という建造物は「トラップ」に見えてくることもw。真の聖域を守るための【目眩し】【要塞】でもある。ウラ古代史を調べ、知れば知るほど、【権力闘争の象徴】にも見えてくるのだった。

御嶽は、形態の特徴も相まって、どうしても人に荒らされやすい確率が高くなる。地の高低差が少なく、年中温暖で雪が降らないという沖縄の地理的環境から、山・森に入るのが容易だし、小さい島故に、生態系も崩れやすい。というか、目に見える形で現れやすいと思う。

紀伊には高い山がある。山自体が聖域であり、守りの堅い要塞でもあるのだ。両方を兼ね備えているのが「高い山」。宗教団体によって、さらに守られている。

皮肉なことだけれども、沖縄は米軍基地が建設されたことによって(基地内の)御嶽=【自然】が守られた、偶発的に昔のままの形で残されたと、知り合いのカミンチュさんから聞いた。

ちなみに、拝みをしている女性たち・ユタ・カミンチュが「目的が拝みであれば…」と正式なIDがなくとも基地内に入れてもらっている姿を、私は見たことがある。「その辺りは、想像していたより寛容なのだな…」と驚いた。

「基地が返還されても、全国チェーンの大型ショッピングモールが建設されるか、リゾートホテルが乱立することになるかだ」という意見を地元の方から聞いたこともある。

タブーであろう聖地の資金繰り・運営について

琉球王朝の管轄だった斎場御嶽や首里城は置いといて、集落の御嶽の維持・管理に関しては、地元の人々の善意・意志で持って整備・清掃を行っている場合がほとんどだと思う。だから、御嶽の場合は、運営費はほぼゼロとみてよい。

神社仏閣の経営管理は、このご時世、なかなか難しくなっているように感じている。熱心な参拝者の寄贈・寄進などから、潤沢な資金で持って運営・管理されている神社仏閣もあれば、歴史深く由緒ある神社仏閣であっても、実は経営面で大変な思いをしているのでは?と感じる事象に遭遇することもあった。

「だから、あの神社の御祭神は、本来「縁結びの神」とは言えないのに、縁結びの神としてPRされているのか…」と、私は物悲しくなったりすることもある。でも、そうでもしないと運営が難しくなるところも存在するのだ。

一部、利益追求に勤しんでるところもあるかも知れないが、そこに祀られている、目に見えない存在はこう思っていると私は直感する。「例え、人々が自分(本来の御祭神)の姿を理解していなくとも、手を合わせに来てくれるのは嬉しい」と。

人々の祈りによって、神域(磁場)は活性化する。活性化するということは、その土地に記憶される想念やら人々の想念にも良い影響を与える。

目に見えるモノも目に見えないモノも、全ては循環している。

聖地で手を合わせることは、地に残留した想念を浄化し、日本の磁場が活性化し、人にも影響を与える。また、環境保護・昔ながらの信仰文化を継承していくことにもつながっていくのだった。

つづく。

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