あなたが何者にでもなれないのは、もう何者かになっているから。
「あなたの頑張り次第で、あなたは何者にでもなれます」
校長先生や担任の先生が、スポーツ選手や志望校に合格した先輩を引き合いに出して、こんなことを言ってくれたかもしれません。
確かに、努力で何かを達成することは、素晴らしいことですし、尊敬するべきことであるのは、間違いないです。
でも同時に、この言葉は、非常に危険だと思います。
「何にでもなれる」と思いすぎて頑張ると、自分を見失う可能性があるからです。
成績が良くなりたいと思って、勉強する。
部活で良い結果を残したいと思って、練習を頑張る。
行事を成功させたいと思って、入念に準備をする。
その努力が実って、「成績の良い自分」や「部活で活躍した自分」、「行事を成功させた自分」が手に入れると、それが自信になって、他のこともできるのではないかと思い、果敢にチャレンジすることもあるでしょう。
しかし、こんなことで努力してしまうと、話は変わってきます。
友達に話を合わせたいから、興味ないけど、自分も好きになっておこう。
恋人は素敵な人だから、自分も釣り合うように、素敵な人になろう!
周りの人は立派なんだから、自分も立派にならなきゃダメだ・・・。
なんとなく、成績を上げるより簡単そうに見えますが、実はこれ、無茶な課題を自分に課しています。
これらはすべて、“能力を伸ばす努力”ではなく、“何者かになる努力”をしなければなりません。
仮に、友達に話を合わせたいからと言って何かに詳しくなっても、友達の熱量についていけるかは分かりません。
他も同様に、恋人の前で良い人を演じても好かれるとは限りませんし、自分が立派になろうとしても、何をもって立派と呼べるかなんていう明確なものはありません。
その目標は、別人にならない限り、一生達成されません。
“何者かになる努力”には、潜在的に自己否定が含まれています。
いずれも、他人と同じレベルに達していない自分を、恨んだことから始まった努力です。
しかも、そこには「自分がどうしたいか」という願望はなく、「他人によく見られたい」「みんなと同じになりたい」という見栄しかありません。
みんなと同じものを手に入れるための努力ほど、辛いものはありません。
何者にもなれていない自分と向き合えば向き合うほど、自分には存在価値がないと思えてきます。
自己否定は、自分の中でどんどん大きくなって、気がついたら、自分自身が機能しなくなります。
本来の自分を犠牲にした先には、何者も待っていません。
ちょっと立ち止まって、自分らしさが何なのか、思い出しましょう。そのままの自分でも、誰かを笑顔にしたり、生きがいを感じることはあったはずです。
自分じゃない自分になろうとするのではなく、能力を伸ばす努力だけを選び続けましょう。
あなたの頑張り次第で、あなたは何者にでもなれません。
もう、あなた自身が、誰かにとって存在価値のある“何者か”なんです。
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