見出し画像

正直さを嫌う社会に、従わなくて良い。

先日、沖縄から東京に上京した同い年の女性が、「東京の洗礼を受けた話」をしていました。

その人は、渋谷の女子トイレの化粧台を利用しようとしたところ、女子高生3人組が陣取っていたそうです。

一人は化粧台を使っていて、あとの2人は化粧台を利用していなかったようなので、その人は女子高生たちに「使ってもいい?」ときいたそうです。

その女子高生たちは、自分たちが邪魔していたことを詫びるよりも先に、「えっ?」と驚く表情をしながら、その場を去ったそうです。

その人は、「なんで迷惑そうな顔するのかな?」と疑問に感じました。

僕は、この話を聞いて、すごくいろんなことを考えました。

僕が今回注目したいのは、女子高生のマナーの悪さの話でもなく、東京の人に限った行為かどうかという話でもなく、声をかけた女性が敬語かどうかという話でもありません。

自分自身がこの話を聞いて、どう思ったかについてです。

僕がこの話を聞いた瞬間、「それでいいんだよ!」と言いました。

そうやって、当たり前のことを言葉にするのは、大事なことです。

その女性は、別に勇気を振り絞って言ったわけでもなく、正直な会話をしようとしたのです。相手を咎めるために言っているわけでもないので、迷惑そうな顔もしないし、きつい言い方もしません。ごく普通に女子高生たちと会話をしようとしました。

正直なことを言える感覚は、どんなに心が荒んでたとしても、人として持っておくべきものだと思います。だから僕は、「それでいいんだよ!」と言いました。

しかし僕は、いつしかその感覚を忘れていました。

今、僕が生きている社会は「正直な会話を嫌い、空気を読むことを強要する文化」が染みついているように思えます。

3人の女子高生たちも、その社会の一員で、「誰も正直なことを言わず、空気を読んでくれる」という前提で生きているから、その女性の一言に驚いたのでしょう。

僕も上京したての頃は、いろんな正直さを貫いてきましたが、「それは失礼だ!」「空気が読めていない」と言われ続けてきました。

迷惑そうな顔をされながら、注意されながら、空気を凍らせながら生きる日々は、自分が常に間違っている気がして、とても窮屈で怖いものでした。

その結果、僕は言葉を発さないようになっていきました。

自分の正直が常に間違っていると思うと、何をしても楽しくないし、そんな環境の中で「自分らしくいる」なんてできませんでした。

そんな時、この話を聞いて思いました。

人の正直さを否定することは、人を生きづらくさせるだけだ。

正直に思ったことを我慢するのが当たり前の社会なのかもしれませんが、それは人として当たり前のことではありません。

正直なことを言うのは、「失礼」や「空気が読めない」に当たる行為ではないと思いますし、「失礼」や「空気が読めない」の定義なんてものも、曖昧過ぎます。

正直さを我慢することは、自己肯定感も下がって、悩みも増大するので、自分にとって負荷がかかるだけです。

不満になる前に、不安になる前に、不平になる前に、正直なことを言えれば、もっと楽に生きられると思いますし、共感してくれる人もいるでしょう。

だからこそ、正直な自分を誰に否定されても、それに従う必要はないと思うんです。

少なくとも僕は、正直な人間でありたいと思います。

面白いと感じてくれた方、よろしければサポートお願いします。純粋に僕が嬉しいだけでなく、もっと量が多く、もっと高品質な作家活動ができます。どうぞ、よろしくお願いします!