やりたいことをやる人は、時間を大事にしているだけ。
先日、兄とサッカーの話で盛り上がりました。
彼はサッカーが小学校の頃から好きで、今でもサッカーの情報には、人一倍詳しいです。
そんな彼が、サッカーにのめり込むようになったきっかけは、小学校のときのコーチとの出会いです。
おかげで兄は、サッカーがどんどん上手くなり、サッカーをやめた今でも、サッカーを愛してやまない人間になりました。
僕も同じ指導者に習っていたので、その人の話で盛り上がっていたとき、僕は、こんなことを提案してみました。
「小学校のサッカー部、教えてみれば?」
今もサッカーが好きなんだし、今も地元に住んでいるし、これだけ小学サッカーに恩恵を受けている人もいないので、ちょうど良いのではないかと思い、軽く提案してみました。
兄は、一度はその話にのろうとするものの、「まぁ、俺にサッカーを教えてくれたコーチと一緒なら、楽しそうだけど、そうじゃないならいいかな・・・」と、その話を避けました。
そのとき僕は、「あっ。また俺のおせっかい癖が出てしまった・・・」と、少し反省しました。
しかし、どうしても僕は、「好き」を「好きのまま」にしていることに、歯がゆさを感じるのです。
これが恋愛なら、相手の気持ちとか、そういったことを考えないといけないかもしれませんが、人じゃないなら、そんなに考える必要はありません。
関われる機会を増やして、もっと多角的な視点で「好きなもの」を見て、より深くのめり込んだ方が、濃い時間を過ごせると思うんです。
特に、自分が好きなことをやっていない場合、そうした方が幸せだと思うんです。
なぜ僕は、こんなふうに考えてしまうのだろうか。
それは、「時間への執着心」にあると思います。
今から10年前の僕は、常にやりたいことができませんでした。
家にお金がなかったため、ネット環境はないし、習い事はできないし、バイト漬けの毎日だし、学校の勉強はやらなきゃいけないし・・・。
八方塞がりの人生を送っていました。
だからこそ、大人になった今、「やりたいことをやるんだ!」という気持ちが、人一倍強いのです。
しかし、兄はそうではありません。
習い事もさせてもらっていたし、バイト代も自分で好きに使っていたし、どういうわけか、高校時代はサッカーも卓球もやっていました(笑)。
そんな状況でも、時間を奪われずに生きていたのです。
少なくとも僕よりは、やりたいことをして生きてきた人間なんです。
つまり、僕ほど、時間を奪われることに恐怖を感じていません。
これからも自分の時間は奪われないと思っているので、好きなことの濃度を上げる必要はないと思っているのでしょう。
一方の僕は、常に自分の時間が奪われることが怖いです。
いつまでも、好きに自由に、時間が使えるとは思っていません。
だって、結婚して、子どもができて、親戚付き合いもしないといけないとなったら、自分の時間は、もっとなくなるでしょう。
そうやって、常に自分を取り巻く環境は変化していくと思っています。
もしかしたら、その時間を「奪われた時間」と感じないように、20代の今、10代でやれなかったことを取り返しているのかもしれません。
そして、結婚や子どもを理由に、「自分のやりたいことができなくなった」と言いたくない。
わざわざ口にしなくても、周りにそう思わせたくないし、自分もそう思いたくもない。
自分の時間が奪われることが恐怖だと感じなくなるまで、これからも僕は、好きの濃度を上げて、全力で自分の時間を取り戻しにいきます。
ダラダラと好きに浸かれるほど、人生は長くないですから。
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