「完璧な正解」と「新しい正解」
昨日、小学校からの同級生の榎本から電話がきて、最近の活動報告を受けました。
「俺、最近やることが多くて楽しいんだよね。お金にならなくても、毎日楽しいんだよ!」
このような報告を受けた僕は、心底安心した上に、少し悔しくなりました。
榎本という男は、とても精神的に落ち込みやすいので、一時的にでも良いからなるべく楽しんでもらいたいものです。
しかし、その電話を受けている僕は、ちょうど「どうやって結果を出そうか?」ということで悩んでいました。
気を付けていないと、「結果を出さなければならない」という緊張した思考で頭が埋め尽くされてしまいます。
この思考になってしまったら、結構きついです。結果を出すまで辛い精神状態が続くということですから。
もちろん、結果を出した方が良いことぐらいは分かっていますが、緊張状態でギリギリ息を吸えているヤツが、楽しんでやっているヤツには絶対に敵いません。
僕が苦しんで1進めている間に、榎本は楽しみながら10進めているのなら、榎本の人生の方が明らかに幸せになれます。
どこかで完璧な正解を出そうとしている僕は、いつまでも完璧な正解を出せず、早く正解を出したい笹塚は、新しい正解を出す確率が上がるでしょう。
誰かに問題用紙を渡されて答えを書く僕と、自ら問題用紙を作って答えと解説まで作る榎本とでは、大きな差があります。
他人に求められたことをこなすのは、お金に換えるのも難しくありませんし、正解も出しやすいですし、精神的にも安心しやすいです。
何度ダメ出しされても、はっきりとした言葉を聞くおかげで、その人が求める正解に近づきやすくなりますし、正解の解説を見て「なるほど」とうなずくこともできます。
しかし、自ら作り出したものが正解かどうか判断するのは、周りの人たちの反応だけです。明確な数字だったり、反響の言葉だったりで、正解だったかどうかを判断します。
正解じゃなかったら反応が薄いですし、時間が経って正解になるものだってあるので、判断しづらい部分が多く、精神的に不安定になりやすいです。
いつしか、お金に換えられないものに全力を尽くせなくなった僕は、全力を尽くしている榎本に、心から嫉妬し、心から協力したいと思いました。
お金になるかならないか、数字に表れるか表れないかが、この世の全てではありません。他人の基準だけが、正解の指標ではありません。
一番最強なのは、自ら問題用紙を作って、自ら答えと解説を書き込んで、それを大正解だと絶賛されることです。
義務教育は終わりました。大人の正解の出し方は、二つあると思います。
それは、「完璧な正解」と「新しい正解」です。
人が求めることを極限まで再現できる正解と、誰の頭にもなかったのに心を惹きつけることができる正解が、世の中には存在しています。
僕もそろそろ、「新しい正解」を出したくなってきたのかもしれません。
24歳になってようやく、大人であることに、ワクワクしてきました。
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