誰にも合わせなくたって、良い文章は書ける。
仕事というのは、基本的に「求められるものに応える」ことだと思います。
応えることができれば「仕事ができる人」、応えられなければ「仕事ができない人」として認定されます。
僕らは、相手が何を求めているのか、どのぐらいの労力をかけたらいいのかをあらかじめ計算して、仕事に臨んだ方が結果が出やすいです。
ただ、そんなことばかり繰り返していると、心は消耗していきます。
いつしか、相手に合わせているだけの人間になって、「自分」というアイデンティティは失われていくからです。
僕は、仕事ができない人間だったのですが、最近はようやく求められていることを学習してきた成果が実って、職場の一人には「仕事ができる」認定されるようになりました。
難易度の高い業務は、僕ばかりが担当することになって、支払われる金額も周りと差がついています。
初めは認められることが嬉しかったのですが、最近はその陰で進行する弊害の方があからさまに大きいとも感じています。
その弊害とは、合わせるべき人がいないと、何もできなくなることです。
例えば、noteを執筆することに対して、誰かが僕に具体的な注文をすることはありません。
「こんな文章を書いてほしい」「こんなテーマで書いてほしい」というリクエストを読者から貰っていないのに、執筆しています。
僕は自分の書く文章の正解を、自分で決めるしかないのです。
そのため、時々「どう書けばいいのだろうか?」と悩むことがあります。
何のお題ももらっていないのに、どう走っていいかがわからなくなって、最終的にどこがゴールなのかも見失ってしまいます。
これが仕事だったら、クライアントの好きそうな感じを理解しているので、そこを考慮して仕上げればいいのですが、全てが自分で完結してしまうnoteなどの活動では、合わせるべき相手がいつまでも見つかりません。
つまり、せっかく好きなことをやっていいのに、好きなことをやれなくなってしまうのです。
僕が作家になった理由は、自分の面白いと思うことを拡大していくためです。つまり、自分の頭の中の発想を形にすることが大事なんです。
それなのに、自分のアイデアを100%発揮しないといけない場面で、急に動けなくなってしまうのは本末転倒です。
合わせるべきものがないのを恐怖に感じてしまっては、誰にも求められていない自分の発想をアウトプットしたくなくなるのは当然です。
時には、相手に合わせず、自分の感覚を信じてアウトプットしてみないと、自分自身の面白さを相手に伝えることができません。
求められたことだけをこなす「役割」を全うするのも立派なことですが、自分の発想だって、捨てたもんじゃありません。
最近、こんなことに気がつきました。
僕のダッシュボードの閲覧数ランキングを見ていると、誰かのために書いたものよりも、自分の中にあるワクワクやモヤモヤを深く探求した記事が、上位に食い込んでいる傾向があります。
つまり、誰かにとっては関係なさそうな話でも、深いところまでとことん掘り下げることで、相手の心に深く突き刺さるのです。
これから僕は、個人的過ぎる記事を深く書くと思いますが、面白がって読んでいただけると幸いです(笑)。
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