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言葉の最大の魅力は、表現に人間性が宿ること。

自分がなんとなく嫌だと感じるものは、自分にとって大切なことは何なのかを気づかせてくれます。

その理由を「なんとなく」で済ますのではなく、なぜ嫌うのか、どんな気持ちになるのかを考えれば、自分でも気がついていなかった美意識を、はっきりと自覚することができます。

今回は、高校時代から、長年なんとなく放っておいた問題について、向き合ってみたいと思います。

高校時代の僕は、決して他人に文句は言わないものの、なんとなく嫌っている他人の言動がありました。

それは、他人の生み出した表現を、自分の表現として使って、満足そうにしていることです。

具体的に言うと、「クセがすごい」「エモい」「○○しか勝たん」などの使いやすい表現です。

それらを自分の言葉として使っている人を見るたびに、毎回、急速に体温が下がっていくのを感じます。

しかし、それらの表現を使うこと自体、悪いことではありません。

だからこそ、表現を流行語に頼る人を非難したこともないですし、その表現を使ったからと言って無理して笑うわけでもなく、サラッと流していました。

ただ、なぜこんなにも他人の表現を使って満足している人に、嫌悪感を抱き続けるのかが分かりませんでした。

自分が編み出したかのように言っている表情がムカつくのか、意味がズレているはずなのに使っている様子がムカつくのか、それで安易に笑いを誘おうとしている感じがムカつくのか。

そのどれもが当てはまるような気もするし、当てはまらないような気もして、自分でも上手く説明できませんでした。

こうなった場合、他人に共感されにくいことに対して、嫌悪感を抱いています。

大体は、「自分独自の美意識に反している」という理由です。

他人はやっても良いけど、自分はやりたくない。

そんな思いが強いものは、そこに何らかの美意識が隠されています。

その視点で考えてみると、最もしっくりくる理由がありました。

それは、人間性がない言葉に魅力を感じないから。

かなり自分勝手な理由ですが、これしかないと思います。

誰かの表現をそのまま使おうとするということは、自分にしか思いつかない表現が生まれる可能性がなくなるということです。

言葉は、人によって大きく表現が変わるからこそ、聞いていて面白いのに、それが全て「エモい」とかに統一されてしまうと、面白味を感じなくなるのです。

つまり僕自身、自分が思っている以上に、「自分語に言い換える作業」が大好きで仕方ないのでしょう。

それが喋る醍醐味であり、文章を書く醍醐味であると感じているからこそ、他人に強制はしなくても、自分はやらないようにしているのです。

自分の自分語もどんどん生み出したいし、他人の自分語もどんどん聞いていきたいのです。

とはいっても、やっぱり他人に自分語を強制はできないので、自分の美意識として、自分語作ることを大切にしていきたいと思います。

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