「伝えたい言葉を伝える」以上に、大事なコミュニケーションなんてない。
人に話しかけることが怖くなったのは、いつからだろうか。
今日の昼間、僕はバスに乗っていたのですが、その車内でおばあさんと20代ぐらいの女性が会話をしていました。
おばあさんと20代ぐらいの女性は、全く面識がないようでしたが、おばあさんが、積極的にいろんな話をしていました。
その光景を見た僕は、「最後に、自分から誰かに話しかけたのは、いつだっけ?」とぼんやり考えていました。
少なくとも、ここ5年ほど、仲の良い友達や業務上の報告を除いて、自分から誰かに話しかけていないことに気がつきました。
幼少期から、多少の苦手意識はありましたが、それでも楽しい時間を作り出すために、自分から積極的に話しかけていました。
それが、年をとっていくごとに、人に話しかけるのが怖くなって、業務上、人に話しかけないといけない場合は、その時間を「地獄」だと思うようになっていきました。
その理由は、完璧なコミュニケーションを自分に求めているからです。
話しかけるタイミング、言葉遣い、声量、マナー、間など、それらが適切にできるかどうかを気にしている自分がいるのです。
僕は、いずれかで注意を受けるたび、もしくは、嫌な顔をされるたび、自分のコミュニケーションに自信がなくなっていきました。
かつては、そんな細かいことは気にしていなかったのですが、大人になると、なぜかコミュニケーションの拙さを伝えてくれる人たちが、たくさんいます。
それは統一されているわけではなく、それぞれがそれぞれのコミュニケーションルールを持っていて、それをこの世のコミュニケーションルールのように押しつけます。
いろんな人の意見を受け入れた僕が考えついた対策は、「誰にも話しかけない」というものでした。
何か失礼なことをするぐらいなら、怒らせるぐらいなら、しかも、それが人によって違うなら、話しかけない方が良いと思いました。
すると今度は、「お前は、コミュ障だ!」と言われるようになります。
もう、生きてるだけで、人間性を否定されている気分です(笑)。
自分は、コミュニケーションの苦手な星の元に生まれたのだろうと諦めようと思ったのですが、その前にあることに気がつきました。
ちょっと待て。人間誰しも、相手にとって完璧なコミュニケーションをとらなくちゃいけない責任が生じるのだろうか?
コミュニケーションが出来ていると思っている人も、悪気なく僕を不快にさせていることはあるし、何かを伝えようとするときに、人の機嫌を調べる義務は生じないはずです。
そもそも、コミュニケーションは、人から人に伝えるためにあるものです。
コミュニケーションのハードルを高くしている限り、僕の言葉は誰にも届かないし、僕自身も誰かの言葉を聞くことがなくなっていきます。
すると、僕の世界はどんどん小さくなっていき、「与える幸せ」も「与えられる幸せ」も、より少なくなっていきます。
「伝えたい言葉を伝える」以上に、大事なコミュニケーションなんてないんです。
いや、伝えたい言葉を伝えられたなら、もうそれは、完璧なコミュニケーションです。
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