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しごとになるとすきなこともつまらない

 いつか、音楽で食えるようになりたい。いつか、文章で食えるようになりたい。いつか、映像で食えるようになりたい。いつか……いつか……。縹渺たる夢、目標をもってして、今の自分を奮い立たせながら突き進む。だが、いざそのものになってみると、まったくと言っていいほどに熱意もアイデアも湧いてこなくなってしまい、どこに要諦があるのかと虚しさだけが胸を埋めていくというのは珍しいことではない、多分……。この現象をなんて呼べばいいのだろう。

 その昔、ポリンキーやNECのバザールでござーるのCMで知られるメディアクリエイターの佐藤雅彦さんが『ヘンテコノミクス』という漫画を上梓していた。行動経済学を、身近な事象をモチーフにショートストーリー漫画で解説する内容で、目から鱗が落ちていく先にある膝をそのまま強く叩いてしまう名著だったと記憶している。そこに、「報酬が動機を阻害する」この現象についても話の一つとして書かれていたのだ。

 『ドラえもん』で、土管のある空き地から飛んできた野球の球によって、高確率で家のガラスを破られる神成さんのようなオヤジがこの話の主人公だ。オヤジは、近所の悪ガキたちが自宅の塀に落書きすることに悩まされている。どんなに怒り心頭、雷を落とそうとも、悪ガキたちは落書きをやめようとしない。反省の色を見せるはおろか、脳が沸騰する勢いで怒るオヤジを見て嬉々とし、いたずらを加速させていく。これでは手の打ちようがない。沸き立った頭の熱気が、鰹節をおどらすかごとくオヤジの少ない髪を散らからせる。

 しかしオヤジは、ある日悪ガキたちにいつもとは違う行動をとった。落書きをしてキャッキャ言いながら逃げようとする彼らに、報酬を与えたのだ。

「こんなに素晴らしい絵をありがとう。ご褒美をあげよう」

 確かお菓子か何かだったと思う、またはお金だったか……。悪ガキたちは驚いたが、報酬をもらえたことで喜んだ。そしてオヤジは「また書いてくれたらご褒美をあげる」と言い、悪ガキたちは褒美のためにオヤジの家に通い絵を書くようになった。

 落書きをされて、褒美をやって、オヤジには損しかない。こんなことになんの意味があるんだと訝しむなかれ。ある時を境に悪ガキたちは落書きをやめたのである。きっかけは、オヤジが「すまん、あげられるご褒美がなくなってしまった」と彼らに謝ったことだった。突如告げられた内容に、彼らはげんなりし、モチベーションを失ってしまったという顛末である。

 なぜ悪ガキたちはヤル気が削がれたのか。これを「アンダーマイニング効果」というらしい。内的な動機によって行われていたものに外的な動機が結びついたことで、外的な動機がなければ行為に意味を見出せなくなるというものだ。つまり、単に楽しくてやっていたものに報酬(金銭・褒められるなど)が発生すると、行為の目的が報酬になってしまう。好きで始めたもので、ずっと好きなことをやりたいと思った末に職業を好きなものにしたはず……にもかかわらず、仕事となるとヤル気がなくなることがあるのはそういうことなのだ。

 動機が入れ替わった後の世界、すなわち仕事として行為に臨む環境は、報酬が思った通りにやってこない。給料が上がらない、周囲から理想通りの反応が得られない、時間が足りなくクオリティが追いつかない、など不満の材料は枚挙にいとまがない。報酬に動機が引っ張られ続け、枝葉末節にとらわれ迷子になる。また、元来磨いていた美学にそぐわない生硬粗雑に見える周囲の仕事に怒りを覚えながらも、自身も該当するのではないかと焦りを覚える。少し前の自分であれば、「猖獗極まれり!」と憤慨することで自己を確立することもできただろうに。

 報酬がモチベーションを左右し、理想と現実の差異がスランプというかたちとなって姿を表す。ここまで書いて、一つ思い出した。漫画家の水木しげる先生は、かつて何かのインタビューで「スランプはモチベーションの問題。ずっと同じ気持ちで漫画を書いているから、私にスランプはない」と言う旨を語っていた。なるほどやはり、内的動機をいかにつらぬけるかが、モチベーションを下げない鍵なのか。

 とはいえ、内的動機だけをつらぬき仕事をし続けることがどれだけの人にできるだろう。おそらく、それは無茶であり、無理である。報酬が人と環境をつくる一面をすでに知ってしまっている。方法がもしあるのだとすれば、それは匿名性を取り戻すことに他ならない。と、重く考えなくても良い気はする。報酬とは断ち切られたインプットとアウトプットの環境を新しくつくれば、それだけで十分に内的動機は奪還できる。そこで、「見返りがないのにやったところで……」と思ってしまうようであれば、ほぼすべての動機が外的なものに左右される体になってしまっているということなんだそうけども。

 ただ、内的動機で生み出されたものは、いずれ外的動機の世界でも生きてくる。内的動機の世界で重ねた貯蓄によって、報酬がある環境に飛び立ったように。とするとだ、外的動機の世界で息苦しくならないために、内的動機の世界をつくり続けるのが得策なのだそうか。遊びが仕事に変わるまでを繰り返し続けることになるが、それは苦しくないんじゃないか?

 もう楽しくない世界を知ってしまった。だからせめて息苦しくないための方法を探して進み続ける。これは、ネガティヴなように見えるがとってもポジティヴなことだ。「単純に面白い」は、自分の手を離れれば必ず何かしらの評価がつく。ならば、せめて「単純に面白い場所」だけは死守せねばならない。


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