僕が「国際協力」を仕事にした理由(#2友人の娘の死)
今回は、その2ですね。よろしくお願いいたします。
その1はこちら。
そしてザンビアへ
広島大学大学院の国際協力研究科は、政策レベルで国際協力を研究するというより、現場レベルでも活躍している先生がが多いのが特徴でしょうかね。ですので、ケニアの民族算数教育研究やカンボジアのドロップアウト要因に関する研究など具体的な現場を持つ先生が多いです。学問としての「国際関係」や「国連ガバナンス」とかではなく、「研究者」であり「実務家」でもある指導者が多いということに惹かれて、入学しました。
広島大学大学院の国際協力研究科が提供するプログラムである「ザンビアプログラム」を活用して、ザンビアのセレンジェという町で理数科教師をしていました。
カンボジアでのストリートチルドレンとの出会いもあったので、ザンビアの子どもたちがどうしてドロップアウトしてしまうのかを研究していたのですが、ここでのお話はまた今度触れたいと思います。
同僚の娘の死
アフリカ、ザンビアでの生活は本当に楽しいものでした。初めて海外で住む経験、肌の色が異なる、気候が異なる、文化ももちろん異なる、そういう場所で住んでみると、すべてが新しい経験で毎日が刺激に満ち満ちていました。
学校で働いていましたので、同僚教員とはよく飲みに行きました。同僚教員で仲が良かったチタウ(Mr. Chitau)という社会科教員とは本当によく飲みに行きました。彼と飲みに行くと「ゆうた、どうしてザンビアやアフリカの家族は子だくさんかわかるか?」と聞かれました。「うーん、わからない。」と答えると、「それはね、子どもが一人死んでも寂しくないように、なんだ。」と答えて、大笑いしていました。僕はそれに笑っていいものか、わからずに「またまたー」とか言いながら、お茶を濁していたのでした。
ザンビアでの生活が一年ほど経ったタイミングで、担任をしていたクラスの生徒が家まで走ってきて、チタウ先生の6歳の娘が亡くなったということを伝えてくれました。翌日、すぐにお葬式が開かれましたが、ザンビアは土葬文化です。お葬式が行われている墓地へその生徒に連れられて行くと、大勢の人たちが輪っかになって、町の若い衆が穴を掘っていました。亡くなったチタウの娘が入る墓穴を泣きながら掘っているのです。
その穴の横には、半分に切られた棺が置いてあって、そこにチタウの娘の亡骸が入っていました。大人向けの柩がないので、急ごしらえで大人用のそれを半分に切ったのでした。私からは、干からびて細くなった手だけが見えていて、衝撃を受けました。
どうして亡くなったのか、隣のおばさんに話を聞いてみると交通事故で亡くなったようで、隣町の親戚の家に一人でバスに乗っていた時に交通事故に逢い、道に放り出されて即死だったとのことでした。日本のある自治体から寄贈された救急車が何時間後に急行し、救急車でけが人を運んで行ったそうですが、チタウの娘の遺体は草むらに隠れていて発見されず2,3日経って発見されたのでした。
「子どもが死んでも、寂しくないように」と言っていたチタウには5人の子どもがいましたが、そのチタウはぼろぼろと涙をこぼして、大きな声を出しながら泣いていました。「たくさん子どもがいたら、一人失っても悲しくない」なんて嘘っぱちだった。あまりにも可哀そうで無念で、なんともやりきれない気持ちになって、居たたまれなくなって、もう見ていられませんでした。もう10年近く経ちますが、あの時は春のような陽気だったので、今となっても春になったら体が思い出して、涙が出てきます。
翌日も仕事をするチタウ
翌日はてっきりお休みするだろうと勝手に思っていましたが、チタウは普通に学校へ来て授業をしていました。僕は、休めばいいと思っていたので、どうしてすぐに働けるのか、それを聞きたかった。でも、チタウを職員室で見ると、目が真っ赤で声がガラガラで、とてもじゃないけどそんなこと聞けなかった。毎晩、毎晩泣いてるんですよね、一人で。僕の家と彼の家は近かったけど、彼はいつも外で一人で泣いてた。夜になると、しくしく泣いている声が外から聞こえてくる。でも翌朝になったら、そんな姿をつゆとも感じさせないように授業をしている、同僚と談笑している。僕は娘を亡くした悲しみに暮れる彼と、それでも教師としての仕事に邁進する彼が共存していることがどうしても理解できなかった。何もなくても、雨が降っただとか、気が乗らないからと言って休んでいる同僚が多くいたからです。でも、僕は彼にそのことを最後まで聞けずにいました。「どうして娘が亡くなった翌日から彼は学校へ来たのか」。
自分がやるべき仕事をすることが娘を弔うことである
協力隊としての2年間の任期が終わり、首都へすべての荷物を持って引き上げるときに、学校の持つバスで僕を首都まで送ってくれたのですが、往復で20時間かかるのに、チタウは首都まで付いてきてくれました。その時に、バスの中で彼は僕が聞きたかった質問に答えてくれました。
どうして娘が亡くなった翌日から彼は学校へ来たのか。それは「目の前のやるべき仕事をすることが娘を弔うことであるから」だと彼は言いました。彼の娘も学校の先生になりたかった、父親と同じように素晴らしい教師になるために勉強していた。でも、その志半ばで、幼くして命を失った。それが悲しいからと言って仕事をしないのは、娘に申し訳が立たない。娘の想いを背中に乗せて、教師としての仕事を一生懸命することが娘の弔いになる、そう泣きながら教えてくれました。
僕は、彼のことを心の底から尊敬しているし、本当に出会えてよかったと思っています。
同じ人間だということ
身近でないと、一人ひとりの個別具体的な生活は目に入ってきません。例えば、新型コロナでも身近な人を亡くした人は、このタイミングに乗じて湘南にサーフィンに行こうとは絶対に思わないと思う。自分に関係のない世界で起こっていることだと思いさえすれば、生活を営む一人の人間など目に入らず、いくらだって好き勝手生きることが出来る。残念ながら、人間はそんなもんです。
でも、世界のどこかの誰かが感じている悲しみや喜びは、きっと自分に地続きでつながっていると思うのです。文化や宗教や価値観は違うかもしれないけど、心をもって、自分で考えることが出来て、家族がいて、仕事があって、ささやかな幸せがあって、誰かを失ったりする、「同じ人間」なのだと思うのです。だから、「アフリカ人」を支援するのではない、「チタウ」を助けたい、あんな悲しいことが起こらないような仕組みを作りたい。だから、開発途上国の人々を救いたいのではない、どこどこの国の、どこどこの村に住んでいる、あの人に幸せになってほしい。そういう形で「国際協力」をしていきたいと考えています。
僕にとっては、一生を賭して「なんとかせねば」という気持ちが芽生えたのが、そういう分野だっただけのことです。たぶん、仕事に誇りを持つ人は、そういう原体験があるのだと思います。
僕は、何かの因果で不登校だった妹がいて、カンボジアにインターンへ行くことがあって、協力隊でザンビアに行ったらチタウに出会った。ただ、それだけのことです。妹のような学校に行きたいけども、行けないような子どもやチタウの娘みたいな子どもやチタウみたいな親がこれ以上出ないように「なんとかしたい」ということが仕事としてできるのは、「国際協力」だったということです。
長い文章を読んでもらって、ありがとうございました。
それでは、アディオス。
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