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ただいま、あったかい便座

ローマ発羽田行きの機内に入った瞬間、そこはもうイタリアではないような空気感がした。聞き馴染みのあるイントネーション。いつかはよく見た白の立体マスク。嗅いだことのある柔軟剤の匂い。こんなにも、というほどに、そこには沢山の日本人がいた。

それでも私は頑固に、イタリアをぎりぎりまで引きずった。玩具売り場で帰りたくないと喚きながら薄ピンクのワンピースが真っ黒になるまで床に這いつくばっていた小さい頃のあの精神はまだ健在なのだと自分で思った。

イタリア人の友人と出発する直前までイタリア語で連絡をとり、目の前のスクリーンには古いイタリア映画をつけ、イタリア語でイタリアのビール、ichnsaを頼んだ。

そして、着陸体制に入る直前というところで最終兵器を持ち出した。帰国前、知り合いのイタリア在住の日本人マダムからの「イタリアの生ハムとチーズは当分食べられなくなるから、パニーニをひとつ買って機内で食べるといいわよ」というアドバイスを受け、私はバッグにローマ空港買ったパニーニを忍ばせていたのだった。ゆっくりと噛み締めていたそのとき、後ろの日本人家族が騒ぎはじめた。「みて!富士山だよ!」「わー!富士山じゃん!」と騒いでいるのが聞こえた。一応、窓のほうをちらっと見たけれど、私はパニーニに集中することにした。なんてったって、これは最後のイタリアの味なんだから。まだ帰国していないもんね、と口いっぱいに広がるチーズとハムの美味しさで誤魔化していた。よくよく考えればそこは日本の大気圏内なので、もう日本のはずだったが。

これまで乗ってきた格安エアーでは一度も体感しなかった、あれ?あ、着いたのか、と思わせるような滑らかな着陸によって、12時間に及ぶフライトは案外あっけなく終わった。「Arrivederci(さようなら)」と出口に立っていた客室乗務員に挨拶し、飛行機を降りると、やさしい空港の建物の匂いがふっと香った。周りには何人かのイタリア人のグループがいた。「到着」と大きくかかれたサインを見ながらも、彼らのイタリア語が耳に入ってきて、どこにいるのか分からないような感じがした。

手続きを終えて、スーツケースが運ばれてくるのを待っていると、なんとなくトイレに行きたくなった。個室に入り、迎えてくれたソレを見たとき、ほっとした。便座に座ってしまうと、身体じゅうの神経という神経が抜けていくような気がした。ああ、帰ってきたんだ、とこの時やっと思った。思えた。もうここは、日本で、そして、ここは私が生まれ育ち、私をつくった国だ、と。好きなことも嫌いなことも、色々あって。それでも、こんなふうな安心感はこの国でしかきっと味わえないものだと思った。

ただいま、わたしの国。ただいま、ただいま。

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