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「偶然」が足りないと、退屈で死んでしまう

人間って本当に面白いもので、「予測できない未来」は不安でキライだけど、何の偶然もないと退屈でたまらないんですよね。
外出を自粛しての「おうち生活」に足りないものがあるとすれば、「偶然」ではないでしょうか。

リモートワークも浸透し、疲れるだけの通勤や長すぎる会議などが激減。効率化という点においては、コロナが果たしたポジティブな役割ってかなり大きいと思っています。

ですが、「知りもしないし興味もなかった。でも、知ると意外に嫌いじゃない。むしろ好きかも」くらいの塩梅のモノと出会う確率は、極端に減ったのではないでしょうか。

AI やらディープラーニングやらが、私のことをよく知り「これがオススメだよ」と言ってくれても、偶然に出会ったリアルなものには、鮮度、インパクトみたいなものでは勝てないんだなと、よく分かりました。

ネットとリアル。 「へぇ」の圧がちがう

代々木上原の街を歩いていると、明らかに周囲とは様子のちがう異質な建物に出会います。前を通った人は、絶対に見る。
で、「なんじゃこりゃ!?」となります。

「え、そんなのあったっけ?」となる人は100人に1人もいないでしょう。気づかないとすれば、通過する時にスマホを見てたにちがいないありません。いや、それでも気付きます。たぶん。

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これ、東京ジャーミィという、日本最大のモスクなんですが、こちら基本的にはイスラム教徒でなくても入れるんです。そして中に入ると、なんとも静かで落ち着くんですよ。読書とか、はかどります。

さらに、祈りの金曜日などはトルコ料理もいただけるし、色んな国の人とお話もできます。無性に人恋しく、誰かと話したくなったらオススメです。(今は難しいでしょうが・・・)

でも、たとえば、ネットで「東京ジャーミィ」の情報が流れてきても、
「ま、そりゃ日本のどこかには “日本最大のモスク”はあるわな」
くらいの感想しか持ちようがないと思います。

…と、これくらい私が東京ジャーミィについて力説しても、「へぇー」くらいじゃないですか? つまり、そういうことです。

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生きものは、本質的に偶然でできている

どうすれば、日常に「偶然」を組み込めるか。最近、そんなばかり考えて暮らしています。料理を始めたのも、そのひとつかもしれません。

2週間くらい前から、妻がベランダでプチトマトを育て始めました。ペットボトルで育てる、小さな小さなプチトマトです。育て始めて1週間くらいで芽が出て、すぐに双葉が開きました。

しかし、そこからパタリと成長が止まってしまったんです。そのうち、虫にでもかじられたのか、葉っぱに小さな穴まで。

それでも、毎朝、彼女はベランダに出し、昼間は太陽が動くのにあわせて、律儀に日なたへ動かすのです。その姿がなんともいじらしく、「大きくなるといいなぁ」と秘かに応援しているのですが、いっこうに成長する気配は見られません。

私の中では「もうダメかも…」という予感を抱きつつ、そのまま1週間くらい時間が経ってしまいました。

そんな時、妻が水を替えてみようとペットボトルの覆いを外してみると、「わっ」と小さな驚きの声を上げました。

見ると、ペットボトルの中で底に届くくらいの、長い長い根を伸ばしているのです。それは地面から顔を出している部分よりも、何倍も長いものでした。


えらい経営者だったらコレを見て「人は見かけで判断してはならん」「何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ」みたいな教訓を引き出すのかもしれません。

私などは、「やっぱり偶然っておもしろいなぁ」と感じます。たまたまうちに来たトマトが、小さな驚きをもたらす「偶然」の妙。人間にはコントロールできない、自然が持つそもそもの「偶然性」。

なにかを感じたり、なにかに気づいたり。そこに「偶然の出会い」って不可欠なのかもしれない、と教えてくれたプチトマト先生でした。

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