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175キロ走ってきた男

「なんのために走るの?」 「なにを目指しているの?」
おもわず口にしてしまいそうになるこんな質問。でも、ひょっとしたら問われているのは、質問した僕たちの方かもしれない。


5年ほど前に就職の相談に乗るうち、妙に意気投合し仲良くなったツクダくんという男がいる。

大学時代に全国有数の強豪校でサッカーをしていた彼はとにかく元気。僕の知人の中では、間違いなくイチバン走るのが好きな男で、毎月400キロほど走るらしい。僕の愚にもつかぬ話でもニコニコ楽しそうに聞いてくれるいいヤツだ。

先日、「久しぶりに飲もうか」という話になり彼と会ったのだが、いつも元気ハツラツな彼の様子がおかしい。

歩みが、重い。重すぎるのだ。

階段をのぼるにも手すりを使いながら、まるで階段に落ちた画鋲に警戒しているかのようにゆっくり慎重に歩く。その様子はギックリ腰になったライオンか、ダメージを受け瀕死の状態になったソリッド・スネークのようだった。

無理もない。山道のような35キロのコースを5周。合計175キロ走るレースを完走してきたばかりだというのだ。

—「歩き方、どうしたの?」
ツ「膝が曲がらないんです」

—「なんで?」
ツ「100マイル走ってきたからです」

—「え?そうじゃなくて、骨折とか、捻挫とか?」
ツ「ちがいます。走りすぎです」

—「医者には行ったの? 医者の診断は?」
ツ「走りすぎ、だそうです」
—「なんてゆるい診断。それなら僕でもできる(笑)」

「トレイルラン」という競技の中でも、彼が先週参加した「KOUMI100」というレースは、足場の悪さや坂道の多さなどから、”日本で一番過酷”とも言われているらしい。走行距離175キロ。ちょうど東京駅から静岡駅、あるいは名古屋駅から大阪駅より10キロ長い。

彼はあさ5時にスタートし、一睡もすることなく30時間走り続け、翌日のお昼頃にゴールしたらしい。

僕は35キロさえ走ったこともなければ、それを5周なんてもちろん走っていないし、30時間走ると人間の身体にどんなことが起きるのかも想像できない。それは月に行くことに比べて、火星に行くことがどれくらい難しいのか分からないのと同じようなものだ。
何か1つのことを30時間連続で取り組んだことさえないかもしれない。受験勉強や、どんなに切羽詰まった仕事であっても。

そんな過酷な体験をしてきた彼の話は面白く、大げさにいえばどこか「哲学的示唆」にさえ富んでいた。

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走るツクダくん

人間は2つの痛みを感じることはできない

常軌を逸したこのレースではどんなに鍛えている人でも、レース中に苦しみがやってくるらしい。なぜなら人間は30時間も寝ずに走れるようにはできていないから(そりゃそうだ)。

痛み・苦しみは大きく分けて2パターンある。足が痛くなる、または内蔵が痛くなるのどちらかだ。興味深いのはここからで、彼曰く

「足と内臓が同時に痛くなることはない」

らしい。

どれだけ足が痛く「もう無理だ」と思っても、内蔵の痛みが強くなってくると、足の痛みを感じなくなる。逆もまた、然り。
つまり、「痛み」というものは、どこまでも自分自身が(脳が)勝手に作り出しているもののようだ。それを体感するうち、「限界」についての考え方も変わってきたという。

「今回走ってわかりました。限界ってものは、存在しないんすよ」

満身創痍でゾンビのような彼の言葉は、説得力があるのかないのか分からないが、妙な凄みはあった。


醍醐味は「達成感」、ではないらしい

そんな彼が困るのが「何を目指しているの?」という質問だという。

てっきり、走り終えたときの爽快感や達成感がたまらないのでは?と僕は思っていたが、どうやらちがうらしい。むしろ、走り終えたあとは人の肩を借りないと家にも帰れず、翌日から3日は38度超えの高熱にしばらくうなされるなど、走り終わったあとが一番苦しいらしい。

「達成感」が目的なら、近くの高尾山にでも登ったほうがよいのだとか。

むしろ、彼は、この「辛さ」を味わいたくてやっているところさえあるというのだ。でも、Mというわけでもないし、「ストイック」という言葉もしっくりこない…と、やはり答えが見つからない。

「答え」に窮している彼の様子からは「◯◯のために」走る、と安易に答えを出すことへの強烈な抵抗のようなものを感じた。


言われてみれば、私達は努力したり・努力を継続する際に「◯◯のために」という意味に縛られ過ぎているのかもしれない。

お金にならなければ。仕事に生かせなければ。
モテなければ。スゴイと思われなければ。
やりがいがなければ。生産性が上がらなければ。
バズらなければ。達成感がなければ。
僕らは、本気になってはいけないのだろうか?

彼の言葉を聞くうち、僕は「文章を書くこと」について考えていた。

コロナがきっかけに、不定期ながら note に文章を書くようになった。時々、さぼってしまうこともあるが、これまでブログといえば3日坊主だった僕にしては続いている方だと思う。

そうこうしているうちに、少しずつだが読んでくれる人がいたりコメントをもらったり、中にはサポートまでしてくれる人もいる。書き始めてからできた縁で、同人誌の制作まで誘っていただいた。

書き始めた頃は、そんな展開になるとはつゆも想像もしなかったものの、少しずつ僕にとって「大事な場所」になりつつあるのは間違いない。でも、そんないくつかの恩恵も、最初から「それ」を目的としたわけではない。
ただ、自分なりに続けてみた。それだけなのだ。


久しぶりの宴席も終わりに近づき…

ー「来年もそのレース走りたいって思うの?」
ツ「正直、もう出たくないです。走るの怖いっす」

ー「え、じゃあもう引退なの?」
ツ「いや、来月、もっとヤバいレースにエントリーしてます(笑)」

ボロボロになった体を支えながら、ヤバいレースのことを嬉々として語る彼の姿に
「なんて自由なんだろう」
と僕は感じた。

ただ、続けること。それは「◯◯のため」という束縛から自由にしてくれるのかもしれない。
彼の話を聞いた翌日、僕は無性に書きたくなった。そして、この文章を一気に書いている。


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下記の記事は、彼自身による175キロの記録


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