見出し画像

「梅雨が好き」を分解してゆくと

どう考えても、梅雨は子どもの敵だ。

公園で遊べなければ、楽しみにしていたプールの授業もなくなる。傘を学校に忘れては親に怒られ、靴の中まで濡れて歩くたびに「ぐじゅ」となるのが気持ち悪い。そのままの足で家にあがると、また怒られる。最悪だ。梅雨が好きな小学生なんて、きっといない。

小学生の僕も例外ではなかった。にも関わらず、大人になった今、そんなに嫌いじゃない。むしろ好きといってよいかもしれない。この大転換、パラダイム・シフトは、いつ・どうやって起きたのだろう。

「嫌いなものを好きにさせるメソッド」みたいなものが確立されれば、恋愛やビジネス、ひょっとしたら国際政治にまで悪用され、世界を変えてしまうかもしれない。大変だ。

僕にとっての梅雨といえば喫茶店。それしかない。雨の日の喫茶店で過ごす時間と張りあえるのは、出張帰りの新幹線でスジャータを食べる瞬間くらいだろう。

喫茶店で座って外を眺めていると、思い出されるいくつかの景色がある。

多摩市唐木田に「Cafe de Soeur」という喫茶店がある。夜はバーにもなるので照明は控えめ。でも、道に面した一面が丸みのある大きなガラスで、外光がたっぷり入ってくる。

学生時代、試験期間や卒論制作など、長い時間をここで過ごした。ふっと息をつき、細かい数式を書き込んだノートから目を上げると、窓を斜めに流れていく雨粒が目に入る。雨粒同士はぶつかると一つになって大きな雨粒になる。その向こう側に視界のピントを合わせると、跳ね返るほど勢いよく地面を打つ雨。まるで誰かがボリュームを上げたかのように、雨の音が聞こえてくる。さっきからずっと鳴り続けていたはずなのに。雨音が聞こえてくる頃には、緊張感から解放され、じわりとした心地よさが頭の後ろあたりに広がる。

雨の日は、珈琲の薫りもちがう。角がなく、すこしまろやかで深い、ような気がする。僕の錯覚かもしれないけれども。

こんなふうに雨の喫茶店は、いつかの雨の喫茶店とつながっていて、その時の感情を引っ張り出してくれるのだ。

「好き」という感情の土台を下支えしているのは、「似ている」という感覚なのかもしれない。「あの時と似ている」「あの人と似ている」「あの味と似ている」

僕たちは「似ている」を誰かに伝えるために、論理や言葉を駆使するけれども、「似ている」という感覚は論理や言葉よりもずっと先にやってくるのではないでしょうか。
「あれ? この感じ、前にもあった」
「あの喫茶店に似ている気がする・・・。だからか、落ち着くのは」
と。

「似ている」は本質的にはノンバーバルなのだ。

「似ている」をうまく使ったデザインとして思い出すのが、長野オリンピックのアートディレクションをした原研哉さんの作品。原さんは「雪と氷の紙」という紙を使って(名前からして触りたくなる)、オリンピックのプログラムを編むのだけれども、この紙がふわふわして雪のようなのだ。

このデザインについて原さんは『デザインのデザイン』という本の中で
「誰しもの記憶の中にある、降り積もった雪でふっくらと盛り上がった白い平面を最初に歩く感覚。それを呼び起こす引き金にしたい」というようなことを語っていた。


巨大で緻密で壮麗な「数学」という学問は、ガーゴイルの表情ひとつまで彫り込まれたゴシック建築の大聖堂に似ている。「知の大聖堂」とも言える数学の世界でも「似ている」ことはとても大切な概念だ。

ルービックキューブというパズルがあるけれど、数学という「眼鏡」を通して見れば、それは「あみだくじ」に似ている。さらに”度の強い眼鏡”をかけると、ルービックキューブも、あみだくじも「たし算」と似たものに見えてくる。

ルービックキューブとたし算の「似ている」を突きつめていくと「対称性」という言葉になり、「群論」という新しい学問が生まれる。

ぶあつい群論の教科書は、ほとんど辞書か鈍器に似ている。

「人生にムダな経験なんてないんだよ」
というアドバイスほど、よく使われるけれども相手の心に届かない言葉は珍しい。それでも、多くの人生の先輩達が、つい使ってしまう程度には、この言葉には一抹の真実があるのだろう。

ムダな経験、というものが本当にないとすれば、「あ、あの時になんとなく似ている」の引き出しを増やしてくれるからかもしれない。

えっと、なんの話だっけ。
似ているものを辿るうちに、「梅雨が好き」から随分遠くまできてしまった。「似ている」を見つけることは、思考に旅をさせることと似ている。

この記事が参加している募集

雨の日をたのしく

いただいたお金。半分は誰かへのサポートへ、半分は本を買います。新たな note の投資へ使わせて頂きます。