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人工超知能(ASI)・教育環境への違和感

別に西洋,メリトクラシー批判に傾倒しようというわけじゃない.
もっと,私たちはやりたいように遊ぶことを重視し,それを成果にするという経験を積んだ方がいいんじゃないかという気づきだ.

自分とは何か,そんなものは私には知らないし,自分の得意なことで生きろ,現実は厳しい,と言われる世の中である.そして,これを読む方が経験したであろう,就活などの誰かを説得する経験を通して,信頼を得るためには,何らかの成果を示す必要があったであろう.
自分の得意なことでしか,好きなことでしか勝負ができない,ますます,そんな好きなこと探し,得意なこと探しが強制され始めているように感じる.

私自身,大学を出た身(いや,正確には一般的な人よりは長い時間大学にいた)でありながら,これまでの教育について大変な違和感を感じている.

これらの内容は,多くの人はもっと前から感じていただろうし,すでに文章化していたかもしれない.
また,異論や,さらにこれらの内容に深い知識がある方も多くいるはずだ.
それを承知の上で,発信させていただきたい.
ただの個人的な意見として,生きている証として発信したいのだ.

私はようやく自分の立場が危うくなり,劣等感を強く抱いたことで,この先入観に長い月日をかけて浸潤し,それが当たり前になっていたことを気付かされたのである.そして,過去から疑問はあったにせよ,碌に深く向き合うこともなく,半盲目的に受け入れてきた.そのような不勉強だった私の大きな反省である.つまり,この文章は全て私にとっての反省文である.

  • 指示の強制:
    初めから先生,上司という絶対権限の存在があり,その指示に従うことが強制される.やる意義が自分で納得できない,見出せない宿題を当たり前にこなす.(むしろ,絶対権限に服従しなくてはいけないという意義がある.)

  • 画一性,多様性の欠如,評価指標の固定:
    全員が同じ授業を初等教育から強制される.また全員が同じテストを受け,その中での優劣をつけられてしまう.

  • コミュニティの強制,強制的な共同生活:
    もちろん合わない人間との生活をうまくこなす訓練として有効なのはわかるが,体調を崩したり,来れなくなったりするほどに強制する必要はない.うまく逃げることが学べていない.他者と完全に理解し合うのは原理的に不可能であることを十分に認めていないシステム.

  • 金融リテラシー,ビジネス感覚の欠如:
    お金の稼ぎ方,使い方,何のためのお金なのか,また,失った際のリスク管理方法,そのようなリテラシーをきちんと考える時間をとっていない.特に,金銭を稼ぐという経験をアルバイト,インターンなどしない限り,学校,大学という場では一般的に学べない.

  • 感情感覚の欠如:
    自分の感覚や,他者の感覚にきちんと目を向ける時間がない.
    また,現在,個人レベルからその集団,さらには,国,世界,宇宙レベルで取り巻く環境そのものがどのような影響を与えているのか,作られた環境について考えることが少ない.

あげたらキリがないが,ざっと上の問題が思い浮かぶ.
私の経験ではあるが,過去には,反抗的な立場をとる生徒がたくさんいて,目にみえる学級崩壊や,殴り合いの喧嘩,物品の破損,授業放棄,先生への暴言を吐くなど,よくあることだった.

しかし,最近はみな従順に従うし,なるべく自分の意見を殺し,周りに合わせて動く,ただし,求められたら,何か自分のアイデアを少しは出す.そんな無難な生き方が当たり前になってきているように思う.
仕事でもそうだろう.人材という言葉が生まれたように,人間をまるで扱いやすい道具として扱う.そこで働く労働者たちの多くは,自分たちの思っていることはなるべく波風立たせないように,気をつけて言い,上から言われたことに従順に従うことが求められる.
(もちろん思ったことをうまく発言する人も多く知っている.私は多いに彼らを尊敬する.)

人間は都合の良い道具なのか?
これが,今回,最も議論したいことだ.
教育を通して,利益といった数をとにかく出す,資本主義,評価/成果主義の道具になることが目的なのか?

もし,人間が現在のように,道具として生きるようになってしまったら,まだ,柔軟性のなかった全時代的なアルゴリズムで構成されたような,これまでの機械なら,まだマシだったかもしれないが,大規模言語モデルといった生成AIが数多くリリースされている今,生成AIが人間を超え,人工超知能,Artificial Super Intelligence (ASI)が出てくることは間違いないだろう.
もう一度言い直す,人間を人材という言葉のように,生産のための道具として見るから,ASIが出てくるのだ.

人工知能はあくまでも人間のサポートであるべきだ.
そして,未来は私たち人間がどのような判断を下すのか,どのような選択をするのかにかかっているのは間違いないだろう.
必要なのは,現状の当たり前を一歩以上引いたところから,哲学的に,宗教的に考え直すことなのかもしれない.

そんなことを考えながら,次は何をするか模索中だ.

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