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俳句の森を歩く

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俳人への道を歩きながら、見つけたもの、出会ったものを記録しています。
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記事一覧

手放すことからはじめる ~「取材・執筆・推敲」読書メモ③

「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」(古賀史健著)を読んで、特に心に残った3ヵ所をメモしている。 3ヵ所目は、最初に読んだ時には印をつけておらず、再読のときに目がとまって追加した。読むタイミングが変われば、視線も心の動き方も変わる、という当たり前のことを実感した。 取材を終え、さて書こう、となった時に、はたと手が止まる。何を書けばいいのか、何から書けばいいのか。どうやって「書くこと」を決めていけばいいのか。まさに今、自分がその状況にいる。それに対する著者の答え。 ぼく

ただただ透明な自分になる ~「取材・執筆・推敲」読書メモ②

「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」(古賀史健著)。1ヵ月前に読んだ時に付箋を貼った何ヵ所かを、読み返している。 この、付箋を貼った箇所の読み直しは、同じ時期に読んだ「三行で撃つ」(近藤康太郎著)の教えでもある。 ライターにとって、本は読みっぱなしでいいわけがない。---略--- 線を引きまくる。徹底的に汚す。---略--- とくに重要だと思った箇所は、ページを折っていく。---略--- そうして読み終わった本は、しばらく放っておく。頭を冷やす。一ヵ月もしたあと、ページ

自分だけの文章とは、自分がいない文章である ~「取材・執筆・推敲」読書メモ①

「自分にしか書けない文章」って何だろう。そんなもの本当にあるのだろうか。そんな疑念と、憧れ。 その一方で、俳句では、「自分、自分」という主張が強いと、良いものにはなりにくいと感じる。 文章と自分。俳句と自分。この関係性について、しばらく考えている。 そこに一筋の光明を与えてくれたのが「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」(古賀史健著)だった。コロナワクチンを接種した日の夜に読み始めると、発熱が追いかけてくる気配を感じながらも、その夜のうちに逃げ切って読み終えてしまった。

この時期の月は、1日だけの名前を持つ

昨日(9/21)は、満月と中秋の名月が重なって、タイムラインは月の写真であふれた。近くの公園まで月見の散歩に出てみると、結構人が出ていて、月を眺めるでもなくおしゃべりをしていた。そんな人たちを、月が見ていた。 さて、この一夜のためだけに、いくつもの季語がある。古来から、日本人がいかに、この時期の月を愛でてきたかを感じさせる。 月を指すのが、名月(望月、満月、十五夜、芋名月etc)。この月が出ている夜を指すのが、良夜(望の夜)。雲に隠れていれば、無月。雨が降ったら雨月(雨の

坐禅と俳句 ~「いま、ここ」にある光

はじめて、オンライン座禅会に参加した。 お寺の匂い、床と座布団の感触、外のような中のような曖昧な空間、お坊さんの背筋や声、どこからか集まった名前も知らない人たち。昔は、そういうしつらえの中に身を置くことも、「坐禅」の一部だと思っていた。 でも、オンラインはオンラインで、空間は離れていても、お坊さんと自分だけ、他に何も気にすることがなく、それなりの良さがあった。 坐禅。「いま、ここ」にしかない身体と、「いま、ここ」ではない時間と空間をさまよう心。その心を「いま、ここ」にと

何を書くか、より、何を書かないか?

中高生のころの教科書で水墨山水画を観たとき、そこに広がる「余白」に目を奪われたことを、いまでも覚えている。(横山大観の画だったような気もするのだけど、記憶違いかもしれない) 描かないという、描き方。この逆説が持つ、圧倒的な力。 「省略の文学」とも言われる俳句には、それが特に問われるように思う。17音という小さな場所の中に「何を書くか」、と同時に「何を書かないか」。書かないことで、17音の世界を大きく広げていく。 俳人 中村雅樹さんも、このように書かれていた。 省略する

俳句の難題

俳句誌『晨』の創始者で、哲学者であり宗教学者であり住職でもあった、故大峯あきらさんの動画に魅せられている。 詩人の言葉、僧侶の言葉、哲学者の言葉が織りなす世界は、とても豊かで深い。直接お話を聞けなかったのが残念でならないけれど、まるでそこに居るかのような動画が残されていることは、本当に有難い。 その中で、こんなことをおっしゃっていた。 自分が見てもいないものは、作れないでしょ。嘘じゃないですか、そんなもの。感じていないじゃないですか。テレビや映像を見て作るなんてけしから

俳句は「透明な自分」から生まれる

俳句は、自分の内なるものを、外に向けて表出させる「表現」のひとつ。 とはいえ、自分の中から溢れ出すエネルギーや感情があって、そこに端を発するというよりも(もちろんそういう俳人あるいは俳句もあると思うけれど)、自分の外からやってきて、自分を通ってまた外に出て行く。そういう性質が強いように思う。 そして、そのためには強い自我を持った自分であるよりも、「透明な自分」であることが、大切な気がしている。 正岡子規の「写生論」、高浜虚子の「客観写生」を思えば、今更ながら、かもしれな

古池には、何匹の蛙が飛び込んだのか ~俳句の翻訳について考える

少し前、「俳句は(本当の意味で)翻訳できるものか?」と問われ、そのことがしばらく頭に残っている。 最も有名な句の一つを例に、考えてみたい。 古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉 これは、様々な人が、様々な訳を残している。たとえば、この2つ。 Old pond — frogs jumped in — sound of water. ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)訳 The ancient pond A frog leaps in The sound of the water

俳句は言葉で言葉を超える

オンライン会議ツールで、人と会話をすることが当たり前になった。時々、この人と直接会ったことあったけな、と一瞬迷うくらい、画面越しに会うことと、直接会うことが、脳内でいっしょくたになりつつある。 何が同じで、何が違うのか。 たとえば視覚。画面で見ているのは、その人の姿ではなくて、その人の姿が電子信号となったもの。それを見ている。 たとえば聴覚。その人が空気を震わせる波動を聞いているのではなくて、その人の声が電子信号となって、それが震わせる波動を聞いている。でも結局、それは

海洋冒険家 白石康次郎さんの言葉に、俳句の心を学ぶ

俳句を通じて学ぶことの一つに、自然との向き合い方がある。自然と向き合う。言うのは簡単だけれども、実践するのは難しい。そもそも、どういうことなのか、分かっているようで分かっていない。 そんなことをつらつら考えていると、白石康次郎さんがテレビ番組で語られていた言葉が耳に入ってきた。ああ、こういうことなのかな、と。海洋冒険家が大海原と向き合う姿は、俳人に求められる姿に似ているのかもしれない、と。 俳人 大峯あきらさんの言葉:ものが語りかけてくる所属する俳句同人誌『晨』の中で、代

言葉のプロの教えには、俳句の極意が詰まっていた

岸田奈美さんのnoteは、ひとたび開封してしまうと止まらなくなる。その夜もごそごそ読み漁っていると、「突撃!岸田の文ごはん」に行き着いた。天才ライターの岸田奈美さんが、さらに言葉を学びに達人たちを突撃するというRPG的企画。その中で、達人たちから授けられる極意が、驚くほど俳句のそれと重なっていて、思わず書き記しておきたいと思った。 そもそも、なぜそれが驚きなのかというと、俳句は韻文(一定の韻律をもち、形式の整った文章)であって、散文(韻律や定型にとらわれない通常の文章)では

畑から生まれた俳句は、生命讃歌だった

去年の夏の終わりから、都内で畑を借りて野菜づくりを始めた。畑からとれるのは、もちろん野菜なのだけど、それだけではない。畑で過ごす時間が、そこでしか味わえない感覚が、いくつかの俳句になっていく。たとえば大根。 9月中旬に撒いた小さな大根の種は、みごとな放射状の葉をどんどん広げた。そして、その葉の下で、いつの間にか頭がにょきっと地中から伸び、それはいまにも這い上がらんばかりだった。 そして、いよいよ収穫。葉っぱを束ねてぐっと引っ張ると、一瞬の抵抗の後にあっけないほどぽこっと抜

心の声に耳を澄ませる ~認知行動療法と俳句、そして鰻~

ここ1か月くらい、認知行動療法の考え方を学びながら、アプリを使って日々の気分を記録している。認知行動療法とは、心理療法の1つで、まずは自分の「感情」を捉え、それがどのような「思考」から来ているのか、その思考の癖を自覚したり変えたりすることで、うまくストレスと付き合っていくというもの(らしい)。 1日2回、アプリに「気分」を入力するその瞬間、自分の心に耳を澄ませる。嬉しい、楽しい、悲しい、寂しい、怖い、イライラ、ムカムカ、感謝、不安、安心・・。自分の気分の揺れ動きを認知するだ