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自分だけの文章とは、自分がいない文章である ~「取材・執筆・推敲」読書メモ①

「自分にしか書けない文章」って何だろう。そんなもの本当にあるのだろうか。そんな疑念と、憧れ。

その一方で、俳句では、「自分、自分」という主張が強いと、良いものにはなりにくいと感じる。

文章と自分。俳句と自分。この関係性について、しばらく考えている。

そこに一筋の光明を与えてくれたのが「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」(古賀史健著)だった。コロナワクチンを接種した日の夜に読み始めると、発熱が追いかけてくる気配を感じながらも、その夜のうちに逃げ切って読み終えてしまった。

「教科書」というだけあって、500ページ近くに及ぶ本書には、書く人(ライター)に必要な姿勢や視点、技術などが余すところなく詰め込まれている。その中でもとくに強く、印象に残る箇所があった。ページをめくる手が止まり、文字を追う目が止まり、迫ってくる発熱すらもおそらく一瞬足を止めた。

『推敲』についての章、「推敲は、どこまで行けば終わるのか」に対する作者の答えである。

ぼくの答えは、原稿から「わたし」の跡が消えたときだ。(p466)

終盤にきてこの一文に出会い、この本を読んでよかった、と思った。

ライターは、原稿から「わたし」の跡が消えるまで推敲する。わたしが書いたとは思えない、「最初からこのかたちで存在していたとしか思えない文章」になるまで、原稿を磨き上げる。(p468)

俳句を作りながら感じていたこと。それが、そのまま文章にも当てはまる。と感じた。

たとえば、俳句では「季語が動かない」という言い方がある。その句の季語が、「これしかありえない」「他の季語には置き換えられない」という意味で、良い俳句の一要素といえる。その状態は、「最初からこのかたちで存在していたとしか思えない」と捉えることもできる。この季語が、ここにあるべくしてある状態。少しでも動かすと、いびつで、不自然なものになってしまう。人(作者)の気配や意図を感じさせてしまう。

自分が消えた文章。自分が消えた俳句。それが「自分だけが書ける文章」であり、「自分だけが作れる俳句」である。この逆説にこそ、本質があるような気がしている。

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