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古池には、何匹の蛙が飛び込んだのか ~俳句の翻訳について考える

少し前、「俳句は(本当の意味で)翻訳できるものか?」と問われ、そのことがしばらく頭に残っている。

最も有名な句の一つを例に、考えてみたい。

古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉

これは、様々な人が、様々な訳を残している。たとえば、この2つ。

Old pond — frogs jumped in — sound of water.
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)訳
The ancient pond
A frog leaps in
The sound of the water.
ドナルド・キーン訳

1つの句に、無数の翻訳

当たり前のことだが、1つの句に対して、英訳は複数存在する。訳者の数だけ存在する、と言えるかもしれない。

同じ小説が、複数の訳者の手で、異なる趣を持った異なる作品として世に出て、そして「誰の訳か」によって選ばれるように、たった17音の俳句もまた、それぞれの訳者(読み手)のフィルターを通り、異なる外国語の詩となって世に出ていく。

「蛙」は、ラフカディオ・ハーン訳では「flogs」であり、ドナルド・キーン訳では「a flog」である。日本語では、複数でも単数でも「蛙」なので、片方だけが正解なわけではない。

ラフカディオ・ハーンの頭の中では、何匹かのカエルがバシャバシャと池に飛び込み、ドナルド・キーンの頭の中では、一匹のカエルがポチャッと跳び込んだのである。

「飛び込む」に対して、jump と leap と異なる動詞が使われていることも、そして、その時制(過去形 jumped と、現在形 leaps)が異なることも、興味深い。

この違いを捉えきれる自信はないけれど、あえて解釈してみると、jump は飛ぶという蛙自体の動作、leap は蛙の飛躍(ある場所からある場所への移動)に焦点を当てているという違い、そして、過去形(jumped)によってその一連の動きが過ぎた後に広がる静けさを、現在形(leaps)によって時間軸を曖昧にし、より普遍的な光景を構築するという違いを生んでいるように感じ取れる。

俳句は17音しかないから、解釈を読み手に委ねる余地がとても大きい。17音という限られた情報を手掛かりに、読み手がそれぞれの頭の中で、それぞれの世界を構築する。逆に言えば、17音の外の世界を想起させる力を持つほど、良い俳句ともいえる。そこには様々な解釈がありえて、そしてたった一つの正解があるのではない。

そうして一度は頭の中に広がった世界を、もう一度短い英語の中に落とし込むのが翻訳だとすれば、なおさらそこにバリエーションが生まれるのは当然と言えるだろう。そこにもまた、たった一つの正解はない。

私の頭の中で飛び込んだ蛙は、たった一匹だったとしても。

訳せないものが、あるとすれば

古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉

300年以上も前に作られ、いまなお名句として存在感を放つ。この句には、それだけの理由があるからだけれど、その中には、訳せるものもあれば訳せないものもあると思う。

たとえば、この句が名句である理由の一つに、古池といういわば「死の世界」と、蛙が飛ぶという「生の世界」が、一句の中に同居していることが挙げられるとする。その対局するもの同士がぶつかり合って織りなす世界観が人の心を揺さぶる、という解釈である。(これ自体にも別の解釈があり得るし、これ以外にも様々な理由がある。知れば知るほど、この句は、芭蕉はすごい。)

それは、「old pond/ancient pond」と「frogs jumped/a flog leaps」の対比によって、英語でも表現されている。そこから、必ずしも読み手が2つの対局的な世界の衝突を想起するかはわからないけれど、読み手の解釈に委ねられているという意味では、日本語でも同じである。

俳句は、短い言葉で映像を描き出すことによって、読み手が、自らの想像力で世界を膨らませる。そこには、視覚的なものだけでなく、音や匂いや温度や空気感、それらに触発される感情までも含まれる。そうした、読み手の想像力に働きかけ、五感や感情が入り乱れた「世界観」とでも呼ぶものを立ち上がらせる、その触媒となる映像を描くことは、外国語でもできるように思う。その優れた触媒機能を果たすものが、名句あるいは名訳と言われるのかもしれない。

一方で、翻訳が難しいもの。

たとえば、「蛙」は、和歌では伝統的に「鳴き声」が詠まれるものだった。それに対して、ここでは蛙が水に飛び込む「音」が詠まれている。ここに、この句の革新性や新奇性、伝統を打ち破った歴史的意義がある。(そこには、そもそも俳句が、貴族の間で詠まれていた和歌に対して、大衆の間から生まれた文芸であるという背景もある。)

もしも、そうしたことも、この句が「名句」である所以であるとするならば、それは翻訳が難しい。そもそも300年後の日本人にだって、和歌の伝統を知らなければ、そんなことには気づかずに通り過ぎてしまう。

難しいのは、翻訳ではなく解釈かもしれない

17音の中に、五感や感情や、それらが入り乱れた世界観、それも相対する世界観が混在しているだけでなく、膨大な歴史的文脈が流れ込んでいるのだとすれば、それを英語に訳せるか?という以前に、日本語ですら、それらを作り手と読み手の間で受け渡しするのは、相当に高度なものだと改めて感じさせられる。

逆に言えば、その膨大な何かを受け渡する媒介として短い俳句があるのだとすれば、そして、何が受け渡されるのかはもはや読み手に委ねられるのだとすれば、外国語でも、その媒介としての役割を果たすことは可能と言えるのかもしれない。


結論を読み手の解釈に委ねるような、俳句的な文章になってしまった。俳句はすごい。そして、深い。

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