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グッバイサマーウォーズ①〜④

8月が終わると同時に俺の夏は終わってしまった。
季節の夏ではなく意識としての夏だ。
とても暑かったと記憶している。まずは岩手にて開催のソングオブヘブンに今年も参加した。
父ちゃんの具合が悪く、直前まで参加を考えた。「今とウ」での活動についてもバンド同様、
活動休止する事を決めていた。俺の中でソングオブヘブンを区切りとするイメージが強かったが
俺は7月末に帰郷した際、父ちゃんと約束したのだ。生きているうちにまた会おうと。
考えた結果、母ちゃんの「あんた、こっちの心配はせんでいいけん思いっきり歌ってきんしゃい」の声に背中を押され
今年で三回目のイベント参加を決めた。
去年参加したメンバーに声かけしたが、それぞれ事情がありこれもまた直前まで俺とユキオ氏との2人旅の
可能性が強かった。が、高哲典邸(猿小屋DJブース/猿小屋宇宙)にいつものように出向き、銘酒「テンガロンハット」を
呑むにあたり、「やっぱ行きたい場所があるのなら行かないと後悔するさかい」と猿が叫び、高哲典参加が決まり、
ヤッチンは愛猫サブロー(メス)の具合が悪い為、参加を躊躇しておったが、旧友てるちゃんに面倒をみてもらう事が決まり参加。
併せて新星、佐藤裕也の参加も決まり気が付けば我等がマシーン「デリボーイ号」は定員一杯となった。
8月17日早朝、下北沢ルートスイートホームより岩手県田野畑村へ向けて俺たちの旅は始まった。
冷静沈着なユキオ氏はルートを間違えるほどテンションが上がっていた。俺とのライブは一旦終了となる為、特別な思いが
あったのだろう。俺が活動休止を言い始めた手前、ここにこう書く事はよくないかもしれないが、今年の彼の魂は愛車デリボーイ号のエンジンに宿った。道中は高哲典の与太話9割、その他の面々1割の割合でトークが展開された。イベント参加は3回目となるが、今年は3回の中で
一番、道中の時間が短く感じた。そう。俺もテンションが最高潮に達していたのだ。
しかし、パーキングで休憩をしていると、妹から着信があった。内容は「父ちゃんの事でお医者さんが家族に話しがあるのでにいちゃん、28日帰ってこれんかな」との事だった。俺は「ああなんとか帰るよ」と言った。楽しい気持ちと父ちゃんの心配が交差する不思議な道中だった。
父ちゃんは末期の癌だった。今年1月に帰郷した際は「肺がぼちぼち痛くなってきた」などと話せる程度だった。やたらと幼き頃の思い出を俺に話してくれたのを覚えている。父として息子へ伝えたいことを一杯話したのだと思う。俺も長男として父に聞きたい事や伝えたい事をあるだけ話した。「死ぬのは怖くないね?」「もう覚悟しとる」「やっぱ母ちゃんに先立たれるより、父ちゃんが先に死んだほうがいいばい。嫁に先立たれた男が急に弱るのを何人もみたろうもん」「そうやな。これで良かったのかもしれんな」・・・・そん時には父ちゃんが死んでしまうなど具体的にイメージできなかった。俺、母ちゃん、弟、妹「覚悟はしとる」と言うものの、具体的なイメージは誰もしてなかったと思う。父ちゃんはなんやかんやで復活すると思っていた。ただ漠然とね。だが、7月末に帰郷した際、状況は一変していた。「父ちゃん、ただいま」と言っても父ちゃんはぎょろりとした眼でこっちを見ているだけだった。子供たちが騒がしいとおもちゃを取り上げて放り投げた。魂が抜けたようにベットにうなだれている事が多かった。とはいえ、俺が滞在した一週間で右肩上がりで良くなった。水も飲めなかったが少々飲めるようになり、飯もちょこっと食べ、小さな声で冗談を言ったりした。母ちゃんやまんねー(叔母)の肩に捕まり、トイレにも行けていた。
帰りがけに2人で記念写真をとった。その時とった写真は父ちゃんの部分を拡大して俺の家に飾ってある。がりがりに痩せてしまっているが、
俺はこの写真が好きだ。口元はきりっとしているが、目が笑っている。正確に言うと微笑みかけているに近い。俺に誇らしげに堂々と微笑みかけているのだ。話がそれてしまったが、そんな事があり、何かあったらすぐに連絡するように妹には伝えてあったので、ソングオブヘブンの道中の電話はとても悲しく響いた。
とはいえ、道中は猿小屋の住人、高哲典のジャリズリが炸裂しあっと言う間にイベント会場へついた。17時ぐらいじゃなかったかな。
車中で作曲した。名曲<a href="http://youtu.be/Yry3Us-jJVQ">デリボーイスピリッツ</a>だ。
会場にはお客さんはいない。いるのは蝉とか木々とか蜂とかだ。だが、俺たちはここで歌う為に毎年片道700キロの道のりを
コラムシフトのデリボーイ号で来るのだ。
これは参加した人にしか判らないだろうが、あの会場で歌うとき、それは大地や空や、死んでしまった人々に向けてのライブだ。
ある意味、自身の心に宿る(それぞれの演者の)人々へ対してのライブだ。
目を閉じれば2度と会えない友達がそこにいるような気になる。

俺は、これから死に行く父ちゃんを思った。
父ちゃん、どうやら天国行きが近づいているようだ。俺は岩手県におる。澄子(妹)から電話がきたばい。
今はどうか、まだ天国へは行かないでくれ。また会いましょうと約束したやないか。生きとる間に絶対帰り再開する。俺は長男として父ちゃんの最後を見届けるつもりや。もうちょっと待っといてくれ。

そんな事を思って歌っておったら涙がでて歌えなかった。生まれて初めてだ。
演奏は途中でやめた。

キャッチボールで陽は暮れて

大切なハナシ思い出したんだ
いろいろ忘れてきたけれど
ねえ神様お願い
もう少しハナシをさせてよ
今までついたウソをあやまるからさ あやまるよ あやまるよ


親子として、十分に話し合ったつもりだったし覚悟もしているつもりだったが、なぜだろうか。
本当にもう少しハナシがしたいと思ったよ。
そんなこんなで真っ黒に日焼けして、笑ったり泣いたりして喉はガラガラになって
俺は東京に戻った。その際、妹からまた連絡があった。今度は「お医者さんが、家族への話をする日、前倒しにしたいと言ってます。24日に帰ってこれん?」俺は職場に事情を話し休みをとった。そのわずか数時間後に叔母から連絡があった。「24日の話、さらに前倒しし21日になった」東京に戻って出社した8月20日、普通に仕事だった。昼飯を食った後、叔母に電話した。「正直、父ちゃんの様子はどうなんかね」「あんた、帰ってこれるなら、今からでも帰って来なさい。長男やろ。今すぐ帰って来なさい」叔母からは先日帰郷した際、福岡行きの片道の旅費をもらっていた。なんかあった際はこれですぐ帰って来なさいと。
こんなに早く使う事になるとは思ってなかったよ。
俺はその日、とりあえず一週間休みください。親父の最後を看取りたい。いつになるかはわからん。一週間すぎるかもしれん。と上司に言った。
上司は快く俺の希望を受け入れてくれた。ありがたかった。
家族の顔も見ぬまま、俺は福岡行きのスカイマークのチケットをとった。父ちゃんはホスピスに入ったと聞いている。
その時がくるまで、俺は父ちゃんの部屋に24時間張り付くつもりだった。

8月20日、22時頃。俺は福岡空港にいた。
このときはまだ夏の終わりなど一ミリも感じていなかった。

つづく。

8月20日夜

妹の車中で俺は「父ちゃんはどげんや」と言った。あと何分かすれば会えるのに。妹は「まあとにかく会ってみればわかる」みたいな事を言った気がする。ホスピスがどの様な場所かはユキオ氏から聞いていた。ユキオ氏は一年前に父ちゃんを亡くしている。
「とにかく全てが完璧なスタッフしかいない」と言う事と「医者の話は怖いぐらい正確だ」と言うことを聞いていた。
きれいな建物だった。実家からはそんなに離れていなかった。ここで父ちゃんは人生を終えるのか。本人は家で人生を終えたいと言っていたが、しょうがないなと思った。
へやの名前は「はなみずき」だった。各部屋、花の名前だった。部屋に入って俺は「父ちゃん、帰ったばい。ただいま」と言った。父ちゃんは起きていた。横には母ちゃんが寄り添っていた。「あんた竜也が帰って来たばい」と母ちゃんは父ちゃんに言った。「ああ」と言ったと思うが、声は小さく良く聞こえなかった。眼も半開きで黒目の色が霞んでいた。何色とも表現できない色だった。俺は母ちゃんに言った。
「もう大丈夫や。俺がずーとここにおるけん」今思えば、ずーとっていつまでだったのだろうか。具体的に言えば父ちゃんが死に行く日までなのだが、その時はそれがいつなのか勿論わからなかった。明日かもしれんし半年後かもしれなかった。
でも俺は、まんねー(叔母)の一言で仕事半ばでここに帰って来た。直感のみで。それは何かの予言だったのかもな。変な、とてもネガティブな言い方をすれば、俺が帰って来た事で父ちゃんは「ああもうそろそろか」と思ったかもしれん。東京からダッシュで帰って来たのだから。逆に、ポジティブな言い方をすれば父ちゃんは俺と「生きている間にまた会いましょう」と約束した事を覚えていて、その約束が叶って安心したのかもしれん。わからんが、その時はホント、ただただ父ちゃんの顔がみたいとか、母ちゃんやまんねーやら誠やら澄子が代わり代わり父ちゃんの看病をしとる仲間に入りたかった。息子として。兄貴として。甥っ子として。

8月21日朝

一晩、母ちゃんと俺とで父ちゃんの部屋「はなみずき」に泊まった。天使の様な看護婦さんが数時間おきに父ちゃんの体の向きを変えたりオムツを替えたりしに来た。父ちゃんが咳をするたび俺はハっと目を覚まし、痰をとった。「水飲むね」と言うと父ちゃんは「ああ」とか「よか」とかささやいた。そんなこんなで朝になった。
家族で医者の話を聞いた。別室で聞いた。医者は淡々とまた、言葉をすごく慎重に選び話した。
ホスピスとは延命治療をする場所ではなく本人になるべく苦痛なく自然に近い状態で死を迎える為にお力添えする施設である事。
ご家族へのお話をする日を急遽本日にした理由は、本人の意識がまだあるうちに皆様にたくさん話などをして頂く為に。
奥様はお分かりだと思いますが、癌の進行するスピードは日に日に速くなっていきます。モルヒネや咳止めなどの量も状況をみつつ増やしていきますがよろしいでしょうか。等々。
渡されたプリントには人が亡くなる際、呼吸がどの様に変化するかについてがわかりやすく書いてあった。
「最終的にはあごだけで息をされます。そのようになったらお別れが近いと思って下さい」
母ちゃんは泣いていた。父ちゃんの事で母ちゃんが泣いているのを初めてみたかもしれん。俺は「泣かんばい」と言った。
看護婦さんは天使の微笑みで「泣いていいんです。思いっきり泣けばいいじゃないですか」と言った。その通りだと思ってなんかすみませんと謝った。ホスピスのスタッフは何百の死を目の当たりにしているのだろうと思った。慣れているとかじゃない。そんなペラい事じゃない。彼女たちは死が誰にでも必ず訪れる事を知っているのだと思った。俺たちはそんな当たり前の事を口では何とでも言えるが、本当は知らないのだ。死は誰にでも訪れる。形あるもんは必ずなくなる。
俺は、医者からの話を聞いて悲しむ母ちゃんに言った。
「母ちゃん、泣いてもいいばってん父ちゃんまだ生きとるぞ。まだ生きとるぞ。」
意味などなかった。事実をそのまま言葉にしただけだった。だが、父ちゃんはまだ生きているっちゅう事がなんかよくわからんが、それを口にする事で俺は正気に戻れた気がしたんだ。みんなで笑った。

8月21日夜

夜は俺1人で「はなみずき」に泊まった。父ちゃんが咳をするたび俺は起きて痰をとった。「喉かわかんね」と言ったら「ああ」と父ちゃんが言ったので氷でがつんと冷やした水を飲ませた。「ありがとう」と父ちゃんが言った。父ちゃんにありがとうとか言われた事あったっけなとか思った。言われたこと無いかもしれんな。忘れているだけかもしれんが。あと父ちゃんは「みんないってしもうた」と「もうよか」と言った。何を意味していたかは判らない。だが、これが結局俺が聞いた父ちゃんの最後の「声」になった。

8月22日
モルヒネの量を増やしてもらって、父ちゃんは楽そうだった。モルヒネを打った事がないのでどんな気分なのかは判らなかったが、幻覚とか見えるんだろうな。この日はたくさんの人が父ちゃんに会いに来た。常に「はなみずき」には親戚がいっぱいいて笑い声が溢れていた。新年会みたいだった。みんな酔っ払ってギター弾いて歌ったりピアノ弾いたり、母ちゃん達が歌ったり、カラオケセットで歌ったり。俺が小学生頃の新年会の雰囲気だった。父ちゃんは寝てるのだかおきているのだか分からなかったが、きっと楽しかったと思う。その日は風呂の日だった。天使のような看護婦さんが「一緒に入られますか」と言った。俺もフリチンになり看護婦さんたちはタオルとか巻いて入るのか?と一瞬よぎったが、そんな事はまず無かろうと思い、じゃあ俺、一緒に入りますと言った。全てを見てやろうと俺は思っていた。長男として。1人の人として。父ちゃんがどうなっていくのか全てをこの目で見る。意味があるないなど考えていなかった。なんでも自分で見て感じる事が大切だ。全てにおいて。風呂はすごかった。ベットごと風呂場に移動しリフトでウウィーンと父ちゃんが湯船につかった。俺は端っこで魚市場みたいなエプロンをつけてみていた。看護婦さんが「本当に一緒に湯船につかられる方もいらっしゃいましたよ」と言ったが、俺は「いや、見物しているだけでいいっす」と言った。父ちゃんは気持ち良さそうな顔をしていた。
体を見ているとやせてはいるが、肌が艶々としていた。俺はちょっと前に職場の仲間に聞いて送ったビワの葉の事を思い出した。葉を肺あたりに乗せると癌が治ると言うのだ。父ちゃんの肌つやをみているとビワの葉で復活するんじゃないかとか思って来た。風呂上りにその事を母ちゃんとまんねーに言ってやってみた。効いているのかいないのかは全く分からなかった。

8月22日夜
俺は相当疲れていた。その夜は妹が「はなみずき」に泊まり、俺やら母ちゃんやらは実家でゆっくりしようと話し合っていたが、気が付いたらロビーのソファーで寝ていた。そのまま部屋のソファーで寝た。父ちゃんの咳がひどくなっていた。咳をするたび目が覚めるのだが、体が動かなかった。妹がそのたび起きて痰をとったりしていた。妹の話では俺のいびきが相当うるさかったらしく「フガ」とかなる度、父ちゃんが目を覚ましていたとの事。

8月23日昼過ぎ
「いい加減あんた一回帰って体を休めなさい」と母ちゃんから言われたのでそうする事にした。「はなみずき」に3晩泊まってすっかり我が家のような気分でいたが、実家にも帰りたかったので弟に送ってもらい帰った。1人で実家にいるとひどく寂しい気持ちになった。父ちゃんの闘病日記をつけようと買ってあったノートブックにつらつらと覚えている限りの日々の出来事や変化を書いた。実家には父ちゃん用の最新式介護ベットが設置されたままになっていた。それに寝転がってみたりした。結局父ちゃんはこのベットで何回寝たのだろうか。父ちゃん亡き後、母ちゃんがここで1人で生活している事を想像すると、父ちゃんがいなくなる事と同じぐらい悲しい気持ちになった。「父ちゃんはどげんね」とかあちゃんに電話した。「咳がとまらん。薬を強くしてもらうようにした」と言っていた。まんねーと二人だから安心だった。
坂口恭平の本を一冊読み、35缶のビールを2本のみ、そば2人前食べて布団もひかずそのまま寝てしまった。

8月23日の日記

「9時ごろ母ちゃんに電話した。父ちゃんの咳がとまらないとの事。キツイやろうな。でも父ちゃん。これは儀式とか試練かもしれんよ。みんなそうだろうが俺は何をしていいかわからん。日がたつにつれ分からんくなってきた。楽になるってのは死なのか?咳でつらい中生きる事ってなんなんだろうか?一日でも長く生きてほしいのか。早く楽になってほしいのか。わからん。全ては自然にまかせるしかない。俺たちは寄り添ってそれを見守るしかない。なんかさびしいな。死んだらさびしいからやっぱ一日でも長く生きてほしいな。話とかできんが」

皮肉なもんだ。この翌日24日、おれの父ちゃんは天国へ行った。

つづく

8月24日 晴れ 

その日の日記

夜はいかん。ネガティブな事ばかりになる。ムネ君も言っていた。曲とか夜つくったらいかんと。今は朝だ。気分はいい。おにぎりをにぎり、卵やきをつくり、ジャガリコでポテサラをつくった。サングリンでからあげとか買った。
運動会に行くみたいに
父ちゃんの部屋へ行こう。
のりを忘れてはいかん。
マコトがむかえに来てくれる。

「はなみずき」に入ったら父ちゃんの鼻には管が通されていた。呼吸が苦しいらしく酸素を入れていた。まんねーは仕事に行ったんだっけな。俺のおにぎりをたべて行ったか覚えていない。とにかく父ちゃんは相当苦しそうだ。「咳がひどくて苦しそうだったから酸素を入れてもらっとる。薬の量も増やしてもらったけどあんまり効かん。お医者さんには言ってある」朝飯をくった後ぐらいだったか医者が診察にやってきた。様子をみて言った「お話があります。誰か来て頂いていいですか」「俺がいきます」ロビーへ行った。いすに医者と婦長さんが並んで座った。「お父さんは今、痰を出す事もできない状態で呼吸もだいぶきついでしょう。呼吸自体を楽にする薬があります。咳や痰自体も止めます。舌の裏に直接注射します。ご本人はかなり楽になります」「ではそれを宜しくお願いします」「ただ、強い薬です。副作用があります。呼吸自体を弱くします。薬が強すぎて亡くなる方もいます。ただ、このままではご本人相当きついでしょう。ご家族の方にもう一度確認したいのですが、この薬を投与してもよろしいでしょうか」「はい。かまいません。先日もお話した通り、本人が楽になる事を優先して下さい」そして俺は言った。「死がおとずれる事が本人にとって一番楽であるのなら、死を促す薬などあればそれを使って下さい」「今村さん。それは絶対にやりません。私たちはご本人様が息をおやめになるまで、最も楽になる処置はします。ただ、死を早めるような事は絶対にしません。」その通りだ。ドクターキリコじゃあるまいし。法にも触れるよなと俺は思ってすんませんと詫びた。「薬投与後は点滴もやめます。この状態を持続させるのは本人にとって苦痛でしかありません」500ミリの点滴バックには「100キロカロリー」と記載されていた。父ちゃんは水も飲めず、このたった100キロで一日息をしていた。それをやめる事は100キロカロリー消費した時点で終わりを意味するのだと思った。唯一の動力源。ああ父ちゃん。あと100キロカロリー消費したら何もかも終わるばいと思った。「本人が息をお止めになるまで」俺はその響きがずー頭にこびりついて離れない。息をする事をやめるっちゅうイメージが全くわかなかったのだ。でも悪い気はしなかった。とても配慮された言い回しだと思った。医者は席を立った。婦長さんが残った。「最後に着られる服を用意いただけませんか。何でも結構です。ドレスを着た方もいますし野球のユニホームを着た方もいらっしゃいます」「分かりました。母に伝えます」そして俺は席を立った。

8月24日 昼

説明を受けた事を全て母ちゃんに話した。母ちゃんは泣いた。俺も泣いた。だが、「父ちゃんはまだ生きとるぞ」と言ったと思う。確かに生きていた。服は母ちゃんが家に取りに帰る事になった。そして「はなみずき」は俺と父ちゃん2人きりになった。俺はずーといえなかった事を伝えたかった。今まで伝えようと思った事は100回ぐらいあったが、伝えたら終わると思って伝えなかった。だが、その日は伝えなければいけなかった。耳元で小さな声で。「父ちゃん。いよいよ向かえが来るばい。父ちゃん。俺を生んで、育ててくれてありがとう。俺は父ちゃんの子供で本当に良かったとおもっとるばい。俺にとって父ちゃんは誇りや。もし、生まれ変わりとかあったら俺はまた父ちゃんの子供として生まれて来たい。本当にありがとう。後の事は任せといて。長男としてしっかりやる。みといて。」父ちゃんは何も言わずただ息をしているだけだった。聴こえていただろうか。聴こえていたよね。

母ちゃんは父ちゃんが気に入っていた服と黒いハンチングをもってきた。親戚一同も集まって来た。変わりばんこで父ちゃんの手を握ったり胸をさすったりした。時間は長くも短くも感じた。正確に言うと時間が進んでいるっちゅう概念が無かった。ただ其処には父ちゃんが残りのカロリーを使い息をしていた。俺は父ちゃんの足が気になった。さわるととても冷たくなっていた。色も変わっていた。握る手も冷たくなっていた。体温計で計ると40度ぐらいの熱があった。父ちゃんは足の先やら指の先から死を受け入れているように思った。医者が来た。母ちゃんが「もう峠でしょうか」医者はとてもやさしい顔ではっきりと言った。「はい」俺はなぜか冷静だった。父ちゃんの呼吸をとにかくずっと見ていた。この前の説明どおり、息をする位置がどんどん上に上がってきた。もう腹は動いていなかった。父ちゃんの幼馴染の田中饅頭屋のおいちゃんが来た。おいちゃんについて父ちゃんからは色んな話を聞いていたが初めて会った。おいちゃんは父ちゃんの横に立っていた。「征四郎。今まで本当にありがとうな。」と言った。父ちゃんは何か言おうとしていた。口が動いていた。だが声にはならなかった。俺は「父ちゃん、もう喋らんでよか」と言った。そして呼吸はあごだけでするようになった。みんなでありがとうと大きな声で言った。父ちゃんの弟が沖縄から向かっていた。はるみ姉ちゃんも向かっていた。呼吸がぴたっと止まってはまたしだす。それの繰り返しになった。息が、している時間と止まっている時間の比率がどんどん止っている時間のほうが長くなっていった。俺は冷静だった。父ちゃん。最後の最後まで俺は全てを見るけんなと思った。母ちゃんはまだ死なないでと言った。澄子も誠も親戚も周りにいっぱいいた。誰が何を言っていたかは覚えていない。母ちゃんが言ったその事だけなぜか鮮明に覚えている。俺は口をずっと見ていた。父ちゃんは息をスーと吐いた。そして止った。止ったままだった。「母ちゃん、息が止った」と俺は言ったと思う。そして俺たちは狂人になった。何分間か覚えていない。泣いたのだけは覚えている。どんな泣き方をしたんやろうね。冷静だった俺の記憶は数分間遮断された。そしてきっと、俺やら誠やら澄子は子供の頃みたく泣いたのだろう。とうちゃんとうちゃんと泣いただろう。父ちゃんは死んでしまった。その瞬間をみた時、俺たちは子供に戻った気がしたんだ。

早いとか遅いとか覚悟の上とか話はしただとか、長男としてとかなんやかんや。
今まで俺は何を覚悟していたのかね。
死なんてもんは誰にでも来るもんなのにね。なんでこんなに寂しいのかね。なんやろうね。分からんね。

其処には生と死の境目があった。
スーとその境目は訪れた。その瞬間に、人は死ぬ瞬間に何を思うのだろうか。そりゃその時になれば分かる。それ以外に今のところ答えはないな。

俺は父ちゃん、ようがんばった立派やったと言った。そして医者を呼びにいった。「父ちゃんが今、亡くなりました」と言ったと思う。父ちゃんが死んで医者が来るまで相当時間があったと思う。それも配慮された時間だった。しばらくすると医者が来て脈やら瞳孔やらみて、「ご本人が身に着けていた時計とかありますか」と言った。時計は実家においたままだったので父ちゃんのケータイを渡した。それをぱかっと開き、俺たちに時計をみせた。「8月24日午後8時15分を今村征四郎さんが亡くなった時間とします」そして「はなみずき」を出ていった。

つづく


前回の文章からしばらく時間がたった。本当はもっと早いタイミングで全ての文章を書き上げるべきだったのかもしれない。
悲しみや喜びの感情は時間と共に削られる。忘れていく。俺が最も恐れている事だ。忘れる。
父ちゃんの死についてその時感じた感情と2ヶ月近くたった今の感情は何かが決定的に異なるのだ。
そう日々思っていた。だが、なかなか書くに至らなかった。父ちゃんの写真を眺めてはある時は深いため息をつき、ある時はぶつぶつと
独り言の様に話しかけもした。俺は19年前に東京に出てきて、父ちゃんとは離れて暮らしていた。電話しても積極的に話しをするタイプの父ではなかった。正直、父ちゃんがいなくなった事実が上手く飲み込めていない。


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ハンチングをかぶった父ちゃんは棺に納められた。「葬式はせんでよか」と生前母ちゃんに言っていたらしいが、俺たちは式場での葬式をやる事に決めた。死んだ後の事は本人の思うようにはならないもんだと思った。そりゃそうだな。本人に「これでいいかいな?」と聞いたところで何も答えてくれないのだから。式は滞りなく進んだ。俺は挨拶をした。何を言ったか内容を事細かに覚えてはいない。賛否両論あるだろうが俺は俺なりの言葉で堂々と立ち振る舞う事を心がけた。父ちゃんがじいちゃんの葬式で挨拶した時のように。
棺は霊柩車に乗せられた。俺は骨壷をもってそれに乗った。油山の火葬場に行った。電光掲示板にはその日火葬される人たちの名前が10数名表示されていた。その中に父ちゃんの名前もあった。係員の兄さんに呼ばれ俺は火葬する場所に行った。番号札を渡され、ここで火葬しますと一通り説明を受けた。炉の中は死の匂いがした。なんともいえん匂いがした。全てが焼き尽くされる時の匂いがした。最後のお別れをする部屋はコンクリートの冷たい感じの部屋だった。ここでどれだけの悲しみが起こったのだろうかと思った。人の思いってやつはその場所に染み付くもんだと思った。その部屋からは明るいイメージは何も浮かんでこなかった。悲しみしかない部屋だった。最後のお別れの時、俺は棺おけに向かって手を振った。父ちゃんバイバイそのうちまた会おうと手を振った。そして父ちゃんは炉の中へ、次の世界があるのならば次の世界へ旅立った。

タバコを吸った後、俺は弟を誘って外に出た。父ちゃんが焼かれる煙をみたかった。なぜみたかったは分からないがとてもみたかった。
外に出て探し回ったが煙突は無かった。技術が進歩し、煙なんてでない事になってるみたいだった。
あっと言う間に父ちゃんは骨になった。母ちゃんはその現実をみて立てなくなった。俺は骨になった父ちゃんを見て「ああ骨になってしまった」と思った。それは確かに父ちゃんの骨だった。だが、ただの骨だった。父ちゃんの想いやら、感情やらは何処にいってしまったのだろうか。幽霊になってそこらにいるのだろうか。俺はそっちの方がリアルに感じた。これはただの骨だ。父ちゃんのたましいが入っていた肉体は燃えてしまった。抜け殻のように感じた。骨を抱えて俺たちは家に帰った。玄関に入った瞬間、俺は意識せず涙が出た。帰って来た。良かったと思った。俺はその瞬間、父ちゃんになった気がした。ものすごい安心感と脱力感が襲った。「やっと家に帰って来た」何度振り返っても思う。俺はあの日、実家の玄関を開けた時、父ちゃん本人になったんだ。たましいが俺に宿ったと思った。不思議な感じは全くしなかった。父ちゃんが俺の体を一時だけ借りた。ただそれだけだ。
その感覚は15分ぐらいで終わった。ベランダでタバコを吸おうと思った時、高哲典から受け取った歌を聴いた。加川良の「その朝」って曲だった。


やがて俺達
一人ぼっちになるのかな
でもよー俺が死んだら
また母ちゃんに会えるよネ


俺は俺に戻って、息子として寂しさを感じた。本当に寂しかった。だが、また父ちゃんに会える気がしたんだ。


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死ぬのは誰でも怖い。だが、今回父ちゃんが先にいった。俺は少しだけ死ぬことへの恐怖が和らいだ気がした。
死んだら父ちゃんに会えるかもしれんって思っているから。
遅かれ早かれみんな死んでしまう。当たり前に。あの時、父ちゃんは何を思ったんだろうか。ある説によると息が止り心臓が止っても
耳は聞こえるのだと言う。心臓が止るイコール脳が止る訳でもないらしい。心臓が止り耳が聞こえなくなる瞬間まで何を思うだろう。
そして耳も聞こえなくなった後はどうなるのだろう。それは死が目の前に迫った時考えればいい事なのかもしれないな。そう思う。
あれから2ヶ月ほど時がたった。今までそうだったようにこの出来事を俺達は少しづつ忘れていくだろう。俺は常々、忘れる事ほどもっとも悲しい事だと思っている。悲しみも含め、俺は父ちゃんが死んでしまった事をいつまでも覚えていたい。キツイ気持ちになってもこの悲しみや寂しさをいつまでも覚えていたいと思う。それはきっとそのうち、過ぎ去りし青春を振り返り懐かしむ時のようななんともいえない懐かしさに変わると思う。もう2度と其処には戻れない事に対するいとおしさに変わると思う。父ちゃんの亡き姿を俺は写真に数枚記録している。何百回もそれをみた。仕事中だったり、家で夜な夜なだったり。父ちゃんの最後の姿を写真にとって本当に良かったと思う。それが父ちゃんの最終形なのだから。俺の父ちゃんの最後の顔なのだから。日々は過ぎていく。俺も年をとっていく。母ちゃんはあの家で一人で何を想い暮らしているだろうか。あの笑いに溢れた我が実家で何を思うだろうか。
今ぐらいの時期が一番寂しいのかもしれない。死の直後は感覚が麻痺して超越して冷静だった。今、父ちゃんがいない事を少しづつ受け入れ始めている俺達がいる。間もなく、父ちゃんの骨は樹木葬っていうスタイルで納骨される。骨を土に返し、その上に墓標を埋め込むのだ。
其処には父ちゃんが生前好きだと言っていた谷村新司の曲の「群青」って文字を刻むらしい。俺はその曲を聴いた事がないが、とてもいい言葉だと思う。

さあ、そろそろ俺達も前を向かねばならない。重要な事は決して忘れる事なく少しずつ前に進もう。
グッバイサマーウォーズ。

愛する家族へ

今村竜也

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