映画「オオカミの家」の感想と考察:内側を侵食される恐怖

大学生の時にアニメーションの授業で見たアニメ作品がずっと心に残っていて、大人になった今でもふと思い出した時に見返していた。

ある日いつも聴いていたラジオで年間のベスト映画を発表する回があり、その中に出てきたのが「オオカミの家」という作品だった。

目黒シネマの2本立て上映

興味を惹かれつつも「心身ともに健康な状態で観るべき」と言う前評判にうつ病の自分は怯んでいたが、なんとこの映画の監督が前述した大学時代に見た忘れられない作品の制作者であったことを知る。

そんな折にちょうど目黒シネマで大好きな「アメリ」と2本立てで上映することになり、これは運命だ!といそいそと劇場へ足を運んだ。
(アメリはじんわりとした幸福感が残る映画なので、もしオオカミの家でメンタルダウンした場合の保険としても最高のペアリングだと思った。)

今回は時を経て学生時代に惹かれたクリエイターに再会したとも言える映画「オオカミの家」についての感想と個人的な考察を記録していきたいと思う。

映画オオカミの家のあらすじと概要

この映画は「オオカミと赤ずきん」や「3匹の子豚」といった昔ばなしを想起させるダークでファンタジックな雰囲気がベースになったコマ撮りのアニメーション作品であり、独特な映像表現が1度見たら忘れられないアートフィルムでもある。

あらすじを要約すると「拷問や性的虐待が行われているカルト団体から逃げてきた1人の女性マリアが、森の空き家で出会った2匹の子豚を家族として新しい自分の居場所を作ろうとする話」である。

この映画の元になった実在したカルト団体である「コロニア・ディグニダ」については以下参照。

ナチス党員で、アドルフ・ヒトラーを崇拝し、子どもに対する性的虐待でドイツを追われたキリスト教バプテスト派の指導者、パウル・シェーファーらが設立した。キリスト教の教義をモデルに掲げているが、1960年代初頭の入植当初から40年以上、ドイツ人のシェーファーの指導の下、拷問や性的虐待、殺害をもって運営を続けたカルト団体。

Wikipedia

何の前知識もなくこの作品を観た方のレビューには「頭のおかしい女の人の頭の中をずっと見てるようで意味が分からなかった」といったものもあったが、私は前述したあらすじを知った上で鑑賞したため「もっと意味不明な映画なのかと思っていたけど脚本がしっかりと練られた社会派映画だったな」と感じた。

「オオカミの家」における内と外の対比

そもそも映画の構造自体が非常に面白い。
家=安全な内側の世界」と「外=敵だらけの危険な世界」という「内と外」を使った巧みな映画表現がとても秀逸な作品なのである。

では、この映画における「内と外」の対比にはどんなものがあるだろうか?自分が考えたものを羅列しながら以降は映画の個人的な考察に移りたいと思う。(ネタバレ含む)

・居場所の対比
外:家の外、森
→敵に襲われる場所
内:家、家庭、家族
→絶対的に安心できるべき心の拠り所となる場所

・身体の構造的対比、体と心の対比
身体の構造としての内と外、さらに体と心という二重の対比がある)

外:皮膚、肌
→必要に応じて「握手」といった挨拶などで他者と肌が接触する可能性はある
ただし「スキンシップ」は基本的に親しい間柄で行われるものである。
→この映画の「虫が身体を這いずり回る」というシーンは皮膚が感知した身体的なトラウマを表現したものであると思う。
(虫が甘い蜜へ変化する描写は、グルーミングや洗脳による意識の強制的な刷り込みだと考える。)

内(身体的):内臓や粘膜
→基本的に他者に触れられることのない身体の内側にあるもの
→つまり性的虐待とは不可侵の領域である身体の内側を合意や愛情なしに身勝手に侵す残虐を極めた行為である。

内(精神的):心、精神、魂、意識、思考、思想など
性的虐待により人としての尊厳を踏みにじられ、自分の身体を自分が所有している意識までを傷つけられる。自分という存在を肯定できなくなる。

上記のようにこの映画は、内と外という構造を上手く使いながら「安心できるはずの内部(家)が安心できないものになってしまっている様」というものを嫌というほど描き続けている。

それこそがこの映画の不穏さや不快感の正体であると思う。その意味で「心身ともに健康な状態で観るべき作品」と評されるのは頷ける。(また、実際に虐待経験をお持ちの方にも薦めるのが難しい映画であるとも思う。)

主人公のマリアが育ったカルト団体では、大人たちに「外の世界には恐ろしい狼がいる」と教育されるため閉ざされた世界にいるより他なかった。

だが、いつしかマリアは気づく。
自分を守ってくれるはずの親権者が、実はグルーミングで人の尊厳を搾取する狼(加害者)であったことに。

「おそろしい狼が実は家の中にいる」

こうして命からがら逃げて見つけた本当に安心できる自分の家、そしてその空き家で出会った2匹の子豚と言う家族。

この子豚という存在もまた作品においてとても象徴的に描かれている。

次からは子豚とマリアの関係性について言及しながらこの作品のテーマについて考察していく。

子豚とマリア

最初は文字通り「子豚」そのものの姿として描かれているが次第に人間の手足が生えた「半人間、半小豚」なり、最終的には2匹から2人の男女の子供の姿に変わっていく。

出典:「映画.com

この2匹は本当の豚でマリアの精神状態から人間の子供と見立てたのか、それとも同じカルト団体から逃げてきた自分と娘や息子ほど年の離れた子供だったのか、マリアが逃がした実の子供達なのか、無関係の孤児か、はたまたマリアの幻想や過去の記憶の残骸に過ぎない存在なのかは明らかにされない。

とにかくマリアはこの2人(2匹)を母のように可愛がって育てていく。
だがその様子は次第にかつてマリアが逃げたはずの支配的な大人の姿と重なっていき、物語はさらに残酷な結末へと歩を進める。

悲しいことにマリアは、自分の内部にも恐ろしい狼を宿してしまっていたのだ。

これはマリアが虐待のトラウマによって生じた自己決定権や尊厳を他者に握られているという恐怖や不安を「同じように他者をコントロールすることで補っている」からだと考える。

ただしそんなものはまやかしに過ぎない。

結局マリアはカルト団体で受けた大人たちの精神的支配から逃れることができないのだった。

そうした描写は、マリアが灯した沢山のキャンドルが一息で吹き消されるシーンや「鳥かごの中にいる鳥」など随所で表現される。

お前はどこに逃げても鳥かごの中の鳥だ
希望を抱いても支配から逃れることなどできない

とでも言うかのように過去のトラウマ達(狼)が執拗にマリアを追い詰める。

この結果マリアは抵抗力を奪われ無能感を植え付けられた挙げ句「元の家(カルト団体)に戻る」という最悪の選択をせざるを得なくなる。
選択というより無意識の服従という表現が正しいだろう。

そもそも「尊厳」というのは他者から与えられるものではなく、元々もって産まれるものである。

その尊厳を「与える」と表現する狼の異常性はあまりにも卑劣であるとはっきりと断言しておきたい。それはこの映画だけでなく、この世界に生きる狼たち全てへ

つまりこの作品は、1人の女性が安心できるはずの内部(家)を外部(敵=狼)によって侵されたことで自己の尊敬を失い、やがて自分の内部に狼を宿すまでに至る地獄の連鎖を描いた悲劇である。

マリアが受けたトラウマをただ鑑賞するのではなく、観客自身も皮膚や内部でそれを追体験するかのように緻密な作り込まれた世界を1秒足りとも見逃さないように集中して観るべき作品であるとも言っておきたい。

おまけ

冒頭で書いた大学生の時に授業で観てから心に残り続けていた同監督の作品「LUIS」と「LUCIA」。
「オオカミの家」のベースとなった作品でもあり、唯一無二のアニメーション表現を体験できるためこちらもぜひ鑑賞していただきたい。

(鑑賞から暫く時間が経ってしまい、鑑賞直後にスマホにメモした走り書きを元に作成する記事であるため映画の内容があやふやな部分もあることをご容赦ください。シーン内容に訂正があればコメントでお願いします。)

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