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月舟町三部作から感じたことvol.2 ~〈ここ〉の定義~

前回に引き続き、月舟町三部作から感じたことを書いていきます。


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【〈ここ〉とは?】

「いいですね? 確かにここにこうしてあります。でも先生、〈ここ〉ってなんでしょう? このオレンジにとって、〈ここ〉ってどこのことなんでしょう?」

〈ここ〉とはどこのことだろうか。

漠然と自分の周りを指すだろうが、そこに明確な境界線はない。

どこからどこまでが〈ここ〉で、どこからが〈ここ〉ではないのか。

難解な問いだ。

この問いを投げかけた果物屋の青年は、〈ここ〉の対極にある〈果て〉についても自論を展開する。

「つまりですね、果てを考えるということは、すなわち、〈ここ〉を規定することになるんです。〈ここ〉がどこまで続いているのかを示すことが出来れば、その先が果てですから」

〈ここ〉と〈果て〉は地続きであり、〈ここ〉を規定して初めて〈果て〉が存在する。


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【果てしないということ】

僕たちは、果てが無いことを恐れる。

それは果てが存在しないと感じることで、〈ここ〉が消失、もしくは無限に拡張されるからだろう。

〈ここ〉が無くなる恐怖と、〈ここ〉が未知の領域を包含しているという恐怖。

果物屋の青年は前者の恐怖について述べるが、僕は後者の恐怖こそが真に近いと思う。

果てが無いことで、自分が〈ここ〉として規定し得る範囲内に未知の領域が含まれてしまう。

だから、自分の〈ここ〉が未知の領域になるかもしれない未来(過去)を可能性として孕む。

その不確かさが僕たちに恐れを抱かせるのではないだろうか。


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【〈ここ〉の流動性】

この世の法則として各個人に〈ここ〉が規定されているのなら、〈ここ〉にのみ目を向けて生活できる。

しかし現実は、〈ここ〉の定義が曖昧である上に、〈ここ〉となり得る範囲が無限に広がっている。

「僕がここでこうして果物屋をひらいているのは、いまのところのかりそめです。あるいは、一生ここで暮らしてゆくことになるかもしれません。でも、もし明日、この町を離れて別の土地で店をひらいたら、すぐにそこが自分の店になります。そこが自分の場所になります。そう思うと、〈ここ〉を規定することは不可能で、〈ここ〉が定まらなければ他所も定まりません。逆に云うと、自分が移動すればするほど、自分の〈ここ〉が増えてゆきます。僕はそれが妙に嬉しくて、それでなかなか帰ってこられなかったんです」 

「でも、帰ってきました」

「ええ。でも、帰ってきました。そしていま、直さんのギターを聴いて、ひとつわかりました。よく知っているはずの〈ここ〉も、ギター一本で空気の匂いや温度まで変わってしまう。それだけじゃありません。僕の知っていた直さんが、まったく知らない人に見えました」

自分の移動した先が〈ここ〉になる。

これは本当にそう思うし、僕が求めているもの。

小学校までは〇〇県に住んでいた。
祖父母は〇〇県に住んでいる。
県外進学、県外就職。

僕がこれまで出会った人、今周りにいる人の9割は〈ここ〉と呼べる場所を複数持っている。

スケールの大きい人は、国境すら跨いだ〈ここ〉を持っている。

それが羨ましい。特に都市部であれば余計に。
無論、半分は自分の責任なのだが。

果物屋の青年が言うように〈ここ〉が増えていく体験はとても嬉しいはずだ。

彼はさらに、同じ〈ここ〉でも小さな変化ひとつで全く別の世界になると言う。

僕はここに活路を見出したい。

常に自分の中に変化を求め、退屈な〈ここ〉を変え続けようと思う。


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これまでに、〈ここ〉という単語のある本を僕は何冊か読んできた。

月舟町三部作から得た〈ここ〉についての視点を踏まえて、これらの本を読み直してみようか。


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