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サンクチュアリ訪問録

サンクチュアリに行った。sanctuary=sanctus(神聖な)+-ary(に関わるもの)であり、混沌と秩序が分かたれたように、人間社会から離れた場所にある動物たちの楽園である。競馬上がりの馬とか保健所から引き取られた犬猫がいる場所である。というくらいの曖昧なイメージと浅薄な知識しか持ち合わせずに、サンクチュアリに行った。それはとても失礼な事であったと反省しているが。

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↑お世話になったhoney’s farm sanctuary 

↑今、クラウドファンディングをされています。是非お願いします


僕がサンクチュアリに行ったのは誘いを受けたからであるのだが、誘いを受けつつも心の中では二つの感情が拮抗しており複雑であった。一方では様々な媒体から情報を仕入れベジタリアンとして生きる身として、実際の動物に触れておかなければならない、それを知っておきたいという義務感のような感じがあり、他方で動物が苦手で、触るのは愚か近付くのも気が引けるという僕の防衛反応として、サンクチュアリに行きたくないとさえ思っていた。結果としては、どちらの思いも挫かれたような気がしている。勝手に期待していたほど動物のことを知れたとは思わないし、そもそも動物を何を知りたかったのか分からないが、また動物への恐怖心も仄かに薄れて山羊は触れるようになった。もっとも牛や馬はまだ怖いし、動きの予測できない犬猫も依然として近づけないままであるが、それでも前進である。これまで保っていた距離も僅かに縮まった。


元々抱いていた想いは別として、得たものは大きい。僕は現在動物の問題に対して、不買という間接的な活動しかおよそしていないが、まさに現場で直接個々の動物の福祉を追い求めている人に会えた。それによって知れたことも多いし、何よりモチベーションを引き上げてくれた。「やるかやらないか」「やれない理由を捜さない」これらの発言に彼女の生き方が見えるが、これは自身の人生においても大事にしたい考えである。僕は動物を救うことに関して、「やるかやらないか」で言えば「やらない」し、これからも今と変わらず微力な支援を継続するくらいしかやらないと思う。動物の問題にコミットする気概はなく、また僕は別の課題に対して人生をかけて「やる」つもりでいるからである。その課題に取り組むときだけは、やらない理由を探さずに、やるという選択を、それがたとえ無謀であってもできるようなチャレンジャーでいたい。


ただ、サンクチュアリに訪れた後に自分を反省してみると引っかかる態度があった。サンクチュアリで日々動物のことを考えて生きている彼女を見て、「すごいな、自分にはそんな覚悟できないな」と思ったのだ。彼女は、自分の私財を投げ打って人生を全て捧げるほどの覚悟がないならやらない方がいい、米と塩だけでも生きていくほどの覚悟がないなら、という風なことを言っていたし、僕がサンクチュアリをやることはないのだが何かが引っかかっていた。そう、その思い自体が友人からベジタリアンである僕自身に向けられるものと一緒なのだ。相手はすごい人間で、とても自分には相手みたいなことはできない。間に線を引きそこを越えようとはしない。僕が彼女に向けたものと、友人が僕に向けるものには違いがあるが大方似ている。どうやったら書いた線を消せるだろうか。0か100かの二分法で考えるのではなく、0から10にでも20にでもなれば素晴らしく、さらに50、70と進めば世界はさらに素敵なものになるだろうが、防衛線を張ってしまった人に対してどう歩み寄ろうか。ファウストの魂が永遠の女性に引き上げられたように、彼らをどう引き寄せようか。自分自身を、目指している方向へといかに近づけようか。


最後に、彼女は私の知る限りで最も自己実現的な人間であった。

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