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赦しとイエスの弟子たち

こんにちは。

もう大晦日ですね。今年は家に閉じ込められていたおかげで色んなことを考えることができました。

学校で受講しているキリスト教学の課題で、「悔悛のサクラメントは何度も行われるべきか?」という問題に対して自由に考えを述べることが求められまして、それについての自分なりの答えをお読み頂きたいと思います。

そもそもその問題を考えるには、悔悛=赦しをどう捉えているかが重要になります。僕はこれを、十字架の出来事前後の弟子たちを追体験することだと考えました。初めて自分の中にスッと入ってくる答えを見出せました。

この答えに至った経緯を先にお話しましょう。もう新年が迫ってきていていますが、ついこないだクリスマスでした。クリスマスを自分なりに過ごそうと思った結果、遠藤周作の『私のイエス』を読んで、キリスト教に向き合い直す機会にしようということになりました。遠藤は、十字架を語る時にイエスに着目するばかりではなく、弟子たちに焦点を合わせてみると面白いと言って、弟子たちを中心に捉え直していました。

弟子たちの十字架


イエスに離反していたような弟子たちが、どうして思い直してキリスト教を布教するようになったのか。
その転機となる経験はどのようなものであったのか。


こういうことを考えた時、十字架上の出来事は弟子たちにとって強烈な赦しの体験であったということが出来るのです。十字架の出来事について、詳しいことは遠藤の本を読んでいただきたいのですが、ここで簡単に弟子たちの心理を覗いてみましょう。(遠藤の書いていることをまとめることにします)

弟子たちがイエスに従っていたのは、反ローマの指導者として、つまり旧約に書かれている預言者としての期待を彼に抱いていたからです。ユダヤ教の預言者は、宗教的な人であるというよりユダヤ民族を救う政治的な指導者としての性格が強いと言います。弟子たちが、最後の晩餐で「自分たちの内で一番偉いのは誰か」と議論したのは実は政治的指導者のNo.2の立場の話で、十字架以前の弟子たちは今教会で語られるような聖人ではなかったということです。彼らも平均的な人間でした。

またイエスの生前は、弟子たちはイエスの新しい教えを理解していなかったと遠藤は解釈します。弟子たちは普通のユダヤ人であ理、その教えの真髄を理解しないまま、政治的指導者の像を投影したイエスにつき従っていたのです。

そのように平均的で弱い人間であった弟子たちは全員が、イエスが捕まった後彼を裏切ることになります。それは福音書に書かれている通りであり、またイエスの集団のメンバーが他に逮捕されないのはおかしいという理由からだと遠藤は書いています。

「イエスを今、死刑場に向かわせているのは、自分たちの行いの結果である」

弟子たちはそう思っていたのだと思います。自分たちのそのような罪をも背負ってイエスは死刑になる。激しい自己慚愧に駆られていたと思います。それは想像を遥かに絶するような。ここで遠藤は、弟子たちは十字架でのイエスの怒りや呪いを最も恐れただろうと言います。これまでそんなことを考えたことはありませんでしたが、確かにその通りだろうと思います。弟子たちはエルサレムから遠くに逃げていたわけではなく、近くにいて人づてに話が耳に入ってくる状況ですから、自分たちが責められ呪われたりすることは本当に嫌だったでしょう。

しかし十字架上でのイエスはそんな態度を微塵も取らなかった。

「主よ、彼等を許したまえ。彼等はそのなせることを知らざればなり」
「主よ、主よ。なんぞ我を見捨てたもうや」
「主よ、すべてを御手に委ねたてまつる」

十字架上のイエスはこのように神を讃美し、また弟子たちの上に神の怒りではなく許しを乞うたのです(2つ目の台詞は神を非難しているように見えますが、これは神を賛美する詩の始まりです。ユダヤでは、文書上には初めの句だけを書いてその全てを詠唱したことを表すという習慣があります)。信じられなような、思いもしなかったようなイエスの発言を聞いて、弟子たちには電撃が走ったことでしょう。同時に、それまで理解できなかった愛の教えを経験的に理解することが出来るようになりました。

このような激しい経験を通して、イエスの愛を非常に強く感じたことでしょう。遠藤はイエスの愛は「お母さん」的な愛であると言いますが、亡くなってしまった母親を身近に感じて生きる子供のように、イエスを身近に感じること即ち「同伴者イエス」を経験的に理解することが復活なのだと言います。イエスの愛を知り、イエスを強く感じながら生きることができたから、弟子たちによって彼の教えが拡がりキリスト教が形成されたのです。また、弟子たちは平均的なユダヤ人から「使徒」になったわけです。

僕にとっての赦し

簡潔にするつもりが長くなりましたが、弟子たちにとっての十字架の意味を見てきました。ここからは、弟子たち十字架の追体験という解釈を説明したいと思います。

弟子たちにとっての十字架の出来事をとても簡単におさらいすると、以下のようになります。

イエスを裏切り、自分たちの行いで彼を死刑にした弟子たちはイエスからの怒りや呪いを怖れていたが、彼が十字架で見せたのは弟子たちを赦し、弟子たちの赦しを神に乞う姿でした。これによって、教えを理解していなかった弟子たちがイエスの説いた愛を本当に知る事ができ、イエスを身近に寄り添う「同伴者」として感じるようになった。イエスが共にいるという力によって、彼等はその教えを伝えまわり「使徒」になることができた。

そして、僕の考える赦しは以下のようになります。

人は、思い・言葉・行い・怠りによって度々罪を犯してしまいます。また、犯した罪から目を背けて逃げようとします。その罪を無かったことにして隠そうとします。そうではなく、神によって罪を犯した自分をも受け入れてもらうこと、またそれ以降の人生を正しく歩もうとする強さを神から与えられることが赦しのサクラメントだと思います。それによって、人はまた自分に真摯に向き合い、強く生きることが出来るようになると思います。

このように見ると、上の2つは似たものだと言えるのではないでしょうか?これが、赦しを弟子たちの十字架の追体験と言う所以です。

もう一つ言うと、赦しの主体は神である必要はありません、むしろ私たち自身も兄弟に赦しを与えなければなりません。主の祈りで唱える通りです(逆かもしれないけど)。これは非常に難しい愛の実践だと思いますが。

誰か他人が罪を犯したとします。その時彼が犯した罪をしっかりと認め、さらに罪を犯した彼をも受け入れること。そのような人と、これからも寄り添い生きていくこと。これが「赦す」ということだと思います。決して、罪を無かったことにすることが赦しだと思ってはいけないと思います。そのような姿勢はおそらく糾弾されるべきものでしょう。

人は罪を犯す。自分でそれに向き合い、赦しを乞う。そうして罪に向き合う強さと、それを背負いつつ前を向いてまた生きてゆく強さを得る。だが、人は非常に弱くまた罪を犯してしまう。その度に、神や兄弟から赦しを得て、強さとともに人生を歩む。

これは決して、赦してもらえるから何度罪を犯しても良いということではないのは了解してもらえると思います。一度与えられた強さの灯火が決して消えることがないのが、一番良いのです。


僕はこのように赦しを解釈したので、そのサクラメントは何度も行われて良いと思います。むしろ一度しか行わないという主張には、赦しとは罪を帳消しにすることであるとの考えが見え隠れしているように思えてならないので反対さえします。(最も綺麗な状態で死ぬために、死ぬ直前に洗礼を受けるという風習さえあったらしいですが笑)


年が明ける前に今年一年を振り返って、向き合って、来年もしっかりと生きたいと思います。

良いお年を。

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