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「彼と彼とが、眠るまで。」第十二話


第一部 記録/安寧の学園(十)

 十二の月を数えるころになると、もうすっかり風は乾いて、日中もすっかり肌寒くなっていた。じきに、島はしんと白く染まり、本格的な冬が訪れるだろう。季節の移ろいを予感しながら、アイは薄曇りの空を見あげた。
 二学期の野外訓練について、アイたちは総合的にかなり優秀な成績をおさめたといってもいい。イナサはぼんやりとしているように見えたが、いつも平生としていて視野が広く、回数を重ねるごとに、彼の戦術的な指示や指摘は精度を増していった。
 レヴは、その胆力で前線と指揮を支え、有事には仲間の前にとびだしていく勇敢さがあった。いっぽうで、レクサスの優れた五感は戦闘・探索調査において遺憾なく発揮され、アイは持ち前の慎重さを生かして、班を牽引し、状況判断をおこなった。この調子で三学期を終えることができれば、来年の冬期職業訓練インターンシップでの斡旋あっせんも増えることだろう。

 進級が心配されていたレヴの出席日数は、このところ改善のきざしを見せていた。それはひとえに、イナサのおかげといっても過言ではない。二人はしばしば行動を共にするようになり、最近は同じ寮であることをいいことに、イナサが毎朝起こしに行き、いっしょに登校している。そのせいか、今では周りから「夫婦」だのなんだのと呼ばれることになり、レヴはとうぜん怒り心頭だったが、イナサはイナサで「はて、どちらが夫で、どちらを妻と例えているのでしょうねぇ」などと興味深そうにいった。おそらく、考えるところはそこじゃないだろうとアイは考えたが、どうせすっとんきょうな答えしか帰ってこないだろうと思い、言うのはやめにした。
 もう一人、進級が心配されていたケインはさすがと言うべきか。試験で見事な好成績をおさめ、また彼自身の仕事の実績が評価されたこともあり、進級はほぼ決まっていた。試験終わりに彼はしばらく出てくると言って、すぐに研究室を空けた。何らかの仕事が入ったのだろうか。それからというもの、アイは彼の姿を見ていない。
 レクサスの話もしておこう。レクサスは、サファイアに会うたび声をかけ、また、何度もサファイアへ会いに行った。それ自体は、いままでとなんら変わらない。だが、サファイアの態度は、まったくちがうようになってしまったという。端的にいうなら、サファイアはレクサスを相手にしなくなった。アイは真実を手のひらに隠したまま、あいまいに親友を励ますことしかできなかった。
 サファイアは、このところずいぶん忙しそうにしており、期末試験が終了すると同時に、冬期職業訓練インターンシップで国外へ。以来、学園を留守にしていた。学園きっての将来有望な魔導術士ともなれば、ひく手数多あまただろう。イルフォールは、優秀な生徒へ率先して冬期職業訓練インターンシップをまわし、少しでも多くの社会体験をさせ、先方との関係性を強化するきらいがある。それゆえの中立国家……はさすがに過言だろうが、そういった側面で、外交を調整しているのもたしかだった。

 世界情勢の紙面は、やや不穏な方向へ傾きつつあった。それまで何度も周辺諸国と小競り合いをくりかえしていたイグラシアが、ついに隣国を打ち負かした。これによって、本大陸内のちから関係は明確な変化を迎え、周辺諸国はいよいよ、イグラシアをどうにかしなければならないと動き始めたからだ。年の瀬に国際会議を控えた議長国のイルフォール学園は、警備員の数を増やすなど、政治的な暴力行為テロリズムに備えた対策を強化しているらしかった。そのせいで、こっそり学園街へ遊びに行くことが難しくなったりと、ちょっとした不都合が増えてしまった。――多少の窮屈さは、どのみち国際会議が終わるまでだろう。そう考えれば、暇をつぶす方法はいくらでもあった。
 ちょうどその時期に、イルフォール島の〈禁域〉調査が難航している報せを、アイはどこからか聞いた。
 アイは、自身のまったく預かり知らないところで、なにかがうごめいているような気配だけをはっきりと感じながらも、しかし、その渦中にはいないのだという、どことない安寧と安堵をどろりとむさぼりながら、いつも通りの、なんてことのない学園生活を送っていた。

 純暦一九一四年。 十二月二十五日。
 吐く息も白いその日は、雪の日だった。
 アイはまどろみから目を覚ました。窓が白い。それは、雪が降っていて、部屋の中が温かいからだ。横たわった視界に映るのは、切り分けて残ったケーキと、ならんだティーカップ。向かいのソファでは、レヴとレクサスが寝息を立てている。手狭な資料室のそれにはとてもおさまりきらない彼らは、身体のいくらかをはみだし、多少窮屈そうにしながらも、表情だけはあどけない。
「おや、お目覚めで」
 見上げると、イナサがゆるやかに微笑んだ。
「どうせなら女子の膝枕のが良かったなぁ……なんて。ってか、ずっと起きてたわけ?」
「ええ、まあ」イナサは手元の本を横手の資料へ重ねた。彼はこのところ、図書館の本を種類関係なく片端から読んでいるのだという。すこしばかり体つきが変わったのは、レヴの鍛錬につき合っているからだということを、アイは知っていた。イナサはしばしば「レヴがかまってくれないから、しかたなく鍛錬につきあってるんですよぅ」と文句をたれるのだが、どこか嬉しそうだったのが印象的だった。とはいえ、多少身体がたくましくなっても、愛嬌のあるおだやかな顔だちは、今でも変わらない。
 アイは彼を見あげながら、片手を伸ばした。
ピアスこれ。どうしたの?」
 訊ねながら、彼の耳輪をなでた。小さな黒曜石の艶が、ひかえめに光を返す。
「レヴがくれたんです。『店で見た瞬間、おめぇの顔がチラついてでぇれぇムカついた』って。しばらく前に、誕生日がどうとか、そういう話をしたからかもしれません」
「片耳だけ?」
「いえ。ちゃんとついだったんですけど」
 イナサは向かいへ視線を向けた。レヴを見たようだった。
「せっかくならおそろいにしましょうよ、ってレヴに片方わたしたんです。やってみたかったんですよねぇ、なんか、おそろいでつけるやつ」
 イナサは、苦笑した。
「レヴは、つけてくれませんでしたけど」
「そりゃそうだろうな」
 アイは腕をおろし、頭の後ろで組んだ。
「ピアスってのは、まじないの道具に使われたり……あとは、服の色とか、刺繍とかもそうだけどさ。文化によって身分をあらわしたりするもんなんだよな。イグラシアにも、ピアスにまつわる文化があるだろ?」
「いえ」イナサは首を振った。「そんなのがあるんですか? 翼を宝飾品で飾るのは、よく見ますけど」
「はは、そっか。王族だとそっちのほうが印象的かもな」
 アイは笑った。
「イグラシアでは、〈友情〉とか〈信頼〉の証として、よく主君から騎士に贈られるんだ。最近は、それが民衆にも広まって、求婚とかに使われたりする。もちろん、トモダチとか、親兄弟とか。そういう、大事な人に贈ったりもするんだぜ?」
 アイはからりと笑った。
「で、贈られたピアスを片方だけ返す、ってのにもちゃんと意味があってさ。それは『わたしもあなたを信じています』とか、『同じ気持ちです』っていうことになる。求婚なら婚約成立。騎士なら生涯の忠誠ってな」
 イナサは目を丸くした。
「ではつまり」
「レヴがどう思って贈ったのかは知らねぇけど、まぁ、そういうことだろ」
 アイは、冗談半分に妬けるねぇ、とレヴを見やった。
「でも、お前がなんにも知らなそうにしてたから、ちょっと思うところがあったんじゃねぇの? 意外と繊細っつうか、気にしぃなんだよな」
「そんなに気にしなくても、俺はレヴのこと信じてるんですけどねぇ」
「バカ。順番があるんだよ。あとでちゃんと言っといてやれよ。好きだとか、信頼してるとか。レヴはそういう〈言葉〉を大事にするからさ。だからはっきりしてるんだよ。オレとちがってな。思いこみとか、自分にとって都合が良いからって理由で、黙ったり、見過ごしたりしない。なぁなぁにしたくなくて、ちゃんと筋を通したい。そういうやつだって、お前も知ってんだろ?」
 イナサは「ええ」とほほ笑んだ。
「ま、レヴも納得したら、そのうちしれっと、ピアスつけてくれると思うぜ?」
 アイは身体を起こしながら、「そういえば」と思いだしたことを口に出した。
「マユウヌス連邦なんかは、ピアスは運命の象徴とされているんだ。とくに、同じ石から作られた対のピアスを二人で分けてつけると、離ればなれになっても必ず会えるっていう伝承がある。このあたりは、現在の連邦制が確立する前の長い紛争時代にあった実話が元だったかな。あとは魔除けとか、幸運や知恵を呼びこむ縁起物っていう地域もあるし」
 イナサはくすくすと笑った。
「アイは博識ですね」
「あ、わりぃ。つい」
「いいえ。最近けっこう素をだしてくれるようになったかなって。嬉しいですよ?」
 イナサはまた、微笑んだ。彼は最近、よくこういう表情をするようになった。たんに穏やかな、というわけではなく、もっと別の――、
「俺は、最近ね、よく思うのですよ」
 彼が瞳に二人を映したときに、アイはその答えを知った。翡翠色が、こちらに向く。
「アイや、レヴ、レクサス。あなたたちと過ごす時間が、どうしようもなく愛おしく、楽しいと」
「それは、オレも同感」アイはソファで眠るレヴとレクサスを見やった。温かな燭台の炎が、彼らを包む。イナサは革手袋をはめた左手を、クセのようになでた。
「ええ、ですから、こまったことに、死にたくないなと、思ってしまうわけです」
「いいじゃん。そんなに急がなくても、死ぬときまで、生きてりゃあさ」
「そういうものですかねぇ」
「いいんだよ。それくらいてきとうでさ」
 そのあとも、アイはレヴとレクサスが起きるまで、滔々とうとうと話した。期末試験の結果がどうだとか、史学の先生の話し方が眠くなるだとか、そういった日常の欠片を共有しながら、すっかり冷めてしまった紅茶を飲んで、それが冷たいことに――およそ、とくに面白くもないことだが、なぜだか妙に面白く感じられ――イナサと爆笑した。レヴとレクサスが目を覚ましたころに、もう一度湯を沸かして紅茶をそそぎ、窓外の白色が夜に映える時間まで、その小さな秘密基地で過ごした。ああだこうだと言いながら片付けをして外へ出ると、寡黙な世界はしんと冷えこんだまま、はらはらと雪をこぼしていた。寮の近いレヴ・イナサと別れて、アイはレクサスといつも通りの帰路についた。
 となりに並んだ彼の背丈は、最近また、大きくなった。心なしか、レクサスの口数は減ったように思う。夜の寒さに吸いこまれるように、やがて二人はなにも話さなくなる。ぬれそぼった石畳を歩いた。白い息だけを吐いた。
「じゃあ女子寮はこっちだから」
 またな。そう言おうとしたとき。
 アイはおもむろに、夜を見あげた。頬の熱に、雪が解けたからだ。星から雪が降ってくる。雪雲のない、不思議な空模様だった。はいた息が、白くのぼる。消える。アイは気づいた。同じように、レクサスが見あげている。けれども、彼が見ているのは星空ではなかった。
「サファイア……」
 レクサスは、雪雲が見あたらないことに、暗澹あんたんとしているようだった。――言うべき、だろうか。サファイアのこと、本当のことを、伝えたほうがいいんじゃないだろうか。
「レクサス。あのさ」
 なんかいも踏まれただろう雪の痕を、踏みしめる。
「サファイアのことなんだけど……」
 おもむろに、赤。うつろにアイを映した彼の瞳は、いつになく暗い影を負っていた。咽喉が詰まる。――だめだ。お前がそんな顔をするなんて。
 レクサスの手を取った。アイよりも、もっと冷えきっていて、ずっとかじかんだ手だった。彼が想い人に伸ばした手は、しかし握り返されることはなく。冬を迎えて、独り。こうして空を見あげて、うつろにさまよっている。彼の心は、どこにもゆくあてがなかった。
「サファイアは、この世界がキライだって、言うんだ。だから、オレのこともキライって。なんで、って訊いたら、知らなくていいって」
「それは……」
 サファイアが、レクサスを護るためだ。アイは言葉を飲みこんだ。見ていられなかった。レクサスは、涙を流すこともむせぶこともできないままでいる。
「ずっと、考えてた。でも、やっぱり、わかんなくて。だから、苦手だけど、手紙も書いて、送ってみた。それで返事が来てさ。二度と書いてくれるなって。わかってたけど、やっぱおれ、しつこかったかな。ずっとずっと、迷惑だったかな」
「そんなこと」
「おれね、いっこだけ、みんなに言ってないことがある。サファイアとリア先生が話してた時に、本当は見ちゃったんだ。リア先生が、サファイアにくちづけしてるとこ」
 アイは目を見ひらいた。
「あんまり考えたことなかったけど、やっぱおれ、おかしいのかな。ふつうは、みんな異性を好きになる。もしかしたら、サファイアは、おれのこと気持ち悪かったのかな。無理させちゃってたかな。だとしたら……」
 レクサスは、こまったように
「ぜんぜんダメだぁ。好きな人、大事にできてない」
 ちがう。ちがうんだ。アイは胸のなかで、必死に訴えた。そうじゃない。サファイアは誰よりも、レクサスを愛している。だから手放した。責任もなにもかも捨てられなくて、ぜんぶ抱えて、そのくせ一番愛したい相手レクサスだけを置いていった。サファイアはそういうバカな男だ。だから、レクサスのせいじゃない。――そんなことを、くちにできるはずもなく。
「おれ……」
「お前がおかしいなら、オレはきっと、もっとおかしいよ」
 アイは、握ったままの手にちからをこめた。レクサスは目を見ひらいた。
「ごめん、そんなつもりで言ったんじゃ」
「なぁ。おかしいかどうか、確かめてみる?」
 片手を解いて、アイはレクサスのほほにそえた。少しだけ背伸びをして、口づけをする。
「なん、で……」
 身を引こうとしたレクサスを街灯に押しつけるよう、アイはさらに追い詰めた。
「知らないだろ。お前はさ」
 もう一度。こんどは服越しに彼の身体をさぐりながら。
 ああ、ちゃんと彼は、男だ。自分とは、ちがう。女の身体とはちがう造形がある。それがどうしてかふしぎに思えた。いつも、いつまでも、自分と彼は、あの時みたいに、子どものままでいるような気がしたからだ。アイはそっと唇をはなして、自嘲した。――くちびるは男も女も変わらないのに。あまりにも、報われない。
 ずっと憧れていた。
 そのまぶしさに手を伸ばしていた。
 ずっと、なりたかった。
 ただ、手がふるえる。どうしようもなかった。
「お前が孤児院でオレの手を引いたときから、お前だけが、オレのぜんぶなんだよ。笑うたびに、まぶしくてさ。ずっと見てたいのに、お前と自分と比べてどうしようもなく死にたくなるときがある。レクサス、オレはお前のことが好きだよ。もう、どうしようもねぇよ」
「なんで、だってアイは女の子が……」
「ああ、好きだよ」
 アイは言った。
「一回男とためしてみようとしたこともあったけど、ダメだった」
「ならなんでおれに」
「オレだってわかんねぇよ!」
 アイは叫んだ。
「オレは女子じゃないと抱けない! けどお前のことが好きなんだよ。どうすりゃいい。どうしろってんだよ。オレだって、ふつうに異性を好きになって、ふつうに異性と抱きあえるなら、きっとそれでよかった。なんでお前は男なんだよ。なんでオレは女なんだよ。なんでなんでなんでどうして! ……っとに、なんでなんだよぉ」
 すがるように、地面にくずおれる。袖から手が離れる。指先が、踏みしめられた雪にぶつかった。じん、と痛みがにじんだ。アイは見あげた。
「なぁ、レクサス。お前は、オレを抱けるか」
 レクサスは、今にも泣きそうな顔をした。――それが、答えだ。
「だよな。知ってる。わかってる。だってずっと見てきた」
「アイ、おれ……」
「なにもいわないでくれ。オレがみじめになるから。本当は、こんなこと、するつもりじゃなかった。そんな顔させるつもりじゃなかった。ずっと、お前の親友でいるつもりだった。――けどごめん。正直いうよ。オレ、お前に抱かれるのも、きっとダメだ。身体が、今にも逃げ出しそうだ」
 両腕を抱えて、うずくまる。
「けっきょくさ。お前が、女に欲情できたとしても、オレがだめなら、ダメじゃんな……なんかもう、ぐちゃぐちゃだ。わけわかんねぇ。オレは、きっと何にもなれねぇよ」
 スラックスに染みた冷たさを抱えるように、アイは立ちあがった。雪をはらっても、冷たいままだった。
「……もうすぐ、警備員の巡回時間だ。お前も戻れよ」
 彼とすれちがって、アイは灯りから出た。
「アイ!」
「触るな」
 たった一言をぶつけた。息を詰めた音が、影に沈んだ。彼は、手を伸ばそうとしたのだろう。いっそすがってしまえばよかった。――こんなことになるなら、最初からずる賢く立ちまわってやればよかった。ため息といっしょに零れた白が、虚しく溶けていく。
「サファイアは、ちゃんとお前のことが好きだよ」
 ふり向かないままに、それだけを伝えたアイは、独り。寮へ戻った。


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