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#7『ウィル・レ・プリカ』




第一惑星 パラサイト・エデン

(七)カレー




  居酒屋〈サカイ〉を一階に構えた四階建ての雑居ビルが、道向こうに見えた。あたりはもう真っ暗になっていたが、こうして灯りがついていると、どことなくほっとする。めずらしく、門戸の前には誰かが立っている。待ち合わせというには、ややおちつきがない。不審者かと一瞬疑ったがよく目をこらすと、室内着に半纏を着込んだ奥さんだとわかった。同じタイミングで、奥さんがこちらに気がついて、小走りによってくる。
「ハル!」
「ごめん。遅くなって……」
「よう無事で」
 軒先の提灯に照らされた奥さんの頬が、色を取り戻したように温かくなる。痩せた指で目じりをぬぐうと、奥さんは「本当によかった」と胸をなでおろし「寒かったでしょう」と言って戸をひらいた。臨時休業の札が揺れた。
 店を開いてすぐ左には、二階の宴会席につながる階段があるが、そこから客の笑い声が響いてくることはなかった。今日の予約はなくなったのだろうか。いつもはこの時間になると、店内にはささやかなバックミュージックが流れ、客の声とグラスの音が響く。キッチンへ近づけば、とうぜん揚げ物の熱気があり、食洗器の水流も耳に届く。だが、今日はちがった。音楽はなく、客もいない。カウンターの照明だけがつけられ、そこに店長が座っていた。広い背中は、無言のままでいる。六年前の戦争……その古傷を残した手が、脇のロックグラスへ伸びる。氷はすでに溶け、コースターは濡れていた。
「ハルアキ。クーチン。ラン。座れ。サクヤは先に戻っとれ」

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