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映画レビュー#01「市子」


「市子」

 戸田監督作品の「市子」をやっと見ることができた。
この監督の作品は毎回みたいと思いながら上映時期に近くの映画館で見ることが叶わず、数年前に鑑賞した「ねこにみかん」以来だった。また、全国ロードショーで観ることができたのは待ちに待ったという感動がある。
 大学時代、私も大阪で暮らしていたことから、生駒山や東大阪の地名が出るたび、懐かしさを感じつつ、映画の世界に没入していった。

・人間の尊厳、名前を名乗るアイデンティティ

 テーマが福祉的で登場人物にソーシャルワーカーがいるということもあり、ソーシャルワーカーの倫理的な面でも作品を考えてしまった。『クライエントの尊厳を守る』と言うことは耳タコの話題でもある。その上で、制度の狭間にある人、法律や救済処置を受けるための条件があるが故にそこから抜け落ちてしまう人の救済もソーシャルワーカー(SW)が支援や援助を行う対象となる。それがまさに主人公の市子やその家族の状況なのだろうということは手に取るようにわかった。
 しかし、ここに登場するSWはその仕事をしていない。まず「なぜその仕事をしなかったのか、その仕事をしていたらこんなことにはならなかったのでは?」「もっと適切な支援がだろうに」ということを巡らせた。だが、それは野暮なのかもしれないと思った。
 「制度が生活する人間の首を絞める」そんな印象も同時に受けた。
そこに至る経緯はあまり描かれていないが、「どうしたいか。どうありたい。」を市子の母親が考えた時、支援を受けた結果の先に希望が持てなかったのかもしれないし、そのSWの知識不足、またはSWが個人の利益を優先したか。などと大体こんな選択が浮かび上がってくる。だか、そこから絞っていって何になるのかなとも思ってみたり。誰か一人が引き起こしたものではないから尚更。
 母親の利益、恋人であるSWの利益、妹の利益、市子の利益。
 全てを天秤にかけて、誰か一人の利益を取ることになってしまうのが容易でわかる。全てはwin-winになることなんて滅多にないので、誰かの不利益は必ず発生する。そして完全に利益だけが残るとも言えない。だから、野暮なのだと感じた。
 また、必死にその生き方で貫いている人に違う生き方をしなさいというのは、それこそ尊厳の侵害につながる。課題が発生してしまう生き方でも必死に生きていることには変わりない。そんなギリギリを生きる人に口を出すことは失礼な気もした。

・映像で作り上げるからこその効果

 映画の話に戻る。
 この映画が伝えたかったことは、そんな凝り固まった理屈ではなく、人の生活の中にある感情。日常が日常としてあることの幸福なのかもと感じた。
これに気がつき共感や理解できた時には涙が頬に流れていた。感情を感じる前に反射的に涙が出ていた。このような映画体験をしたのは、これまで生きてきた中でも初めてのことだった。
 それだけ、この映像表現や脚本の言葉にリアルさが滲み出ていたのだと思う。
市子の育った環境、過去の生活環境、日常と写し出される順番に意味があり、その効果で「憂い」や「同情」ではなく、共感が生まれたように考えられる。映像作品故になせる技であり、そこに登場人物の生きた言葉(消して上手くはないセリフ、不器用な人間の言葉)が乗り、ただのエンターテイメントではない作品になっていた。これは地上波のドラマではできないだろうし、映画だからできる表現なのだろうと思う。そんな作品に出会えたことが私の映画体験の中で大きな意義を持つことなった。
 そして、被写体や画角、その場面に映すべきものと写さないものが観客への配慮や観客へ伝えたいことを明確にするために洗練されていたことも感じられた。特に人の死が光景として伝えられるのではなく、セリフや周辺の環境のみで表現されていたことも印象的だった。

・何より俳優さんの怪演

 主人公・市子を演じた杉咲花さんの演技はリアルすぎて恐怖さえ感じた。人物像の映像に残らないような性格や生活環境、生育歴、その他諸々が決めっており、尚且つ経験がともなわないとあの演技はできないのではないだろうかと思えるほどリアルだった。人間の裏も表も理解しないとあのセリフたちは出ないだろうし、だからこそ鑑賞できてよかったと思った。

・刺激を受けて学ぶ、終わらない思考

 残酷でリアルだからこそ、そこで終われないとも思えた。
 この点において、映画の役割みたいなものはどうなっていくのは理想なのだろうかと、まだまだ私の思考が続く。

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