「僕」が大人になるまで 〜『ハリー・ポッター』を読んで〜

突然だが、私は絶叫系アトラクションがとても苦手である。お化け屋敷、ジェットコースターなどなど。幼稚園児くらいの子がうきうきと入っていくアトラクションでさえ付き合いでやむなく乗るといった感じで、正直気乗りしたことはない。
しかしその中でたった一つ、乗ってよかったと思えたアトラクションがある。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンにある、ハリー・ポッターのVRライド。ここの同系統のアトラクションでは五感がジャックされる感じに毎度気分を悪くしていたものだから、自分でも驚いてしまった。
よく知っていると堂々と言える物語ではなかった。だって十年前に映画館で最終章を見たきりなのだから。なのに、ライドの最中聞こえるハリーやハーマイオニーたちの声は確かに私が気力を消失せずにいるための糧となっていたし、クライマックスで箒に乗ったハリーが笑顔を見せてくれた時には、感動すら覚えてしまったのだ。

そんな不思議を解明したかったのと、あとは困難(テーマパークのアトラクション)を共に戦ってくれた感謝の表明に、いつかちゃんと小説を読んでみたいとその後思うようになっていた。そしてこの夏、本当に文庫版を大人買いしてしまった、というわけである。

そして結果としては、最高の買い物だったと思う。どうして今まで読んでいなかったのだろうと、読書嫌いの自分の愚かさを呪いたくなったものだ。ただ、書店で小学校高学年読み物として並べられるのは少し惜しいなとも感じた。もちろん一度触れてみる分にはいいと思うが、そこで読んだきりになってもらいたくはない。高校生、大人になってから、何度でも触れてみるべき物語だ。実際私も映画では抱いた覚えのない感動が、今読み返してみてたくさん込み上げてきた。もちろん、原作の方がより詳しく書かれているからとか単に忘れていただけとか、そういうのも関係しているだろう。だが一番の大きな理由は間違いなく、映画を観た幼い頃の自分の目では想像できないものがまだたくさんあったから、だと思う。


読んでいてまず気づいたのは、この作品が魔法の華やかさばかりでなく、リアルがとても鮮明に描かれている物語でもあるということだ。時に読み進めるのが苦しくなってしまうほどに。ハリーとホグワーツの先生や友だちの親との間に度々生じていたすれ違いは、私が中高生の頃に感じていた大人たちとの距離感と全く同じものだった。
ハリーを始めとした子どもたちは、一巻のうち一回は何らかの問題を起こす。夜中に寮から抜け出すということはもうお決まりだったし、学校の外で魔法を使ってしまったり、マルフォイら仲の悪い同級生と喧嘩してしまったり。特にハリーは自分でも言っていたとおり、その特異な立場上ある程度無茶をしなければ打開できない災難に見舞われることが多かったし、彼がそうしたことで救われた命がたくさんあるのも確かではある。ただそういった事情を差し引いたとしても、それらの判断には独りよがりなものが多かったのではないかと思う。正直私は他人の目を気にして規則を破ったり危なっかしいことをしたりするのを避けてきた子どもだったから、彼らが危険に飛び込んでいく度にどちらかというとびくびくしていた。よせばいいのに、放っとけばいいのにと、本を三十度くらいまで閉じて斜めに読んでしまったシーンもある。けれどもその源にある思考は、否定しがたいものだった。自由、力、仲間、自分の手にあるべきものを証明したい──私もそんなわがままな頃があったなぁと振り返って思う。危ういものでもあったというのも、今ではわかるけど、嘲笑ってしまいたくはない。「寂しさ」はあの頃の私たちにとって、確かに大きな壁だったのだから。そんなことを思い出してみると、困難に堂々と立ち向かってきたハリーたちに、苛立ちの他に、羨ましさのようなものも少し湧き上がってくる。

ところで、この世界にはたくさんの魅力的な部屋が出てくる。魔法の道具が並べられているお店、ホグワーツの寮……中でも私は、ダンブルドアの校長室が一番好きかもしれない。豊かで、繊細で。なんだか、彼の心を覗いているような気持ちになれるのだ。そう想像してみると、ハリーは特にダンブルドアの心を頻繁に訪れていた一人になるのではないかと思う。ダンブルドアのユーモラスで聡明な人柄をそっくりそのまま表したような部屋に引き出されるように、ハリーもまたここで自身の核に触れうるほどの対話に度々臨んでいた。不死鳥の騎士団の終盤は、最も切なく彼らの心が入り乱れていたシーンであったように思える。期待されていない、信じてもらえない、救えない……莫大な無力感から、部屋の物のいくつかを叩きつけ始めるハリー。他人の持ち物に、慕っていたはずの人間の心にまで手を上げなければならないほど、彼の傷はもう一人の少年には抱えきれないものになっていたのだ。そして、ハリーが自らの部屋を荒らすのを静かに受け入れながら、正しく寄り添うことのできなかった彼の血まみれの心に涙を流すダンブルドア。彼ら若者に寄り添えなかった後悔の念を語るダンブルドア。彼はこの時、ハリーにこんなことを語った。
「若い者には、老いた者がどのように考え、感じるかはわからぬものじゃ。しかし、年老いた者が若いということをなんであるか忘れてしまうのは罪じゃ……」
大人時代の経験を経るのは不可能である子どもたちと違って、子ども時代を通り過ぎていない大人などいない。忘れている、あるいは忘れたふりをしているだけで、誰もにハリーらが今自分たちに抱いているのと同じような疑問を抱いた過去があるはずだ。それから、そのとき負ったきりずっと癒せぬままの傷も。ハリーの世界に、ちゃんと、全くの善人が誰一人としていないのは、全ての人が何らかの報われないままの後悔を抱えて生きているからであろう。スネイプの最期の言葉なんて、未練そのものであったと思う。特に、日本語版の小説では。賛否両論あるらしいが、私はこの訳に圧倒されてしまった。少なくとも、相当勇気のいる翻訳だったのではないだろうか。
「僕を……見て……くれ……」
僕、である。原作は”Look at me.” 。英語の一人称は”I”で統一されているため、一人称の変化はない。映画の日本語訳では「私」と、主にホグワーツの同僚や目上の存在に用いていた一人称となっていた(ただしその後に付け加えられている「リリーと同じ眼だ」というセリフは、以降のスネイプの過去の話を匂わせる足がかりがつくられていると思う)。しかし、「僕」。学生時代の、生涯愛し抜いたリリーとの決別があったときの一人称と同じなのだ。誰よりも孤独の中で闘い続けてきた彼がずっと報われることを願っていたのであろう本当の想いを、他のどの形よりもこの一人称で目の当たりにすることができた。

ハリーは大人たちの後悔を、味方のも敵のも含めいくつも受け止めてきた。大人たちの過ちに憤りも見せた場面もあったけれど、最終的にハリーが取った選択は、そう真似することのできないほど素晴らしいものであったのではないかと思う。自らの力のみを信用するのではなく、仲間と共に困難に臨む人間になった。蘇りの石を過去に囚われるためではなく、未来に立ち向かうために手に取った。物語の終わりではニワトコの杖を、これまでずっと苦楽を共にしてきた柊の杖を復活させるためだけに振った。ダンブルドアたちを尊敬しながらも、ハリーは誰とも同じにはならないことを選んだ。そしてそれと同時に、信じるという選択をも取ったのだ。

先に語ったとおり、私はハリーとはほとんど正反対の生き方をしてきた人間だ。危機に立ち向かうのではなく、回避することで応対するタイプ。その性格もあってか実のところ、私は最後までハリーのことを純粋には好きになれなかった。多分、彼と同級生だったらダンブルドア軍団に入っているかどうかすら怪しい位置にいたのではないかと思う。けれどもこの背景にはやっぱり、軽蔑よりも嫉妬の方が濃く存在しているのだろう。数多くの痛みがありながらも、奇跡にも満ち溢れていた彼の世界に。時に大きな仲違いが起きることはありながらも、自らのありったけを託すこともできる仲間がいた彼に。だがどれもこれも、彼の取った選択があったからこそ得ることができたものだ。彼に決して歪むことのない勇気と愛があったからこそ、すべてがついてきたのだ。そのかけがえのない強さに私は憧れ続けていて、そして本当はもう、子どもの頃から少し分けてもらっていたのかもしれない。だから私はテーマパークの中の小さな旅でなら、ハリーと遂げることができたのだ。そう、信じている。


多くの大切な人を失ってしまったハリーもまた、後悔の全くない大人としては今生きていないだろう。これからだって例えば息子たちとのすれ違いという、周りにいた大人たちの多くが経験してきたいたって凡庸で分厚い壁にぶち当たることもあるかもしれない。けれども子どもたちに唱えていたように、ハリー、きっとあなただって大丈夫だ。だからどうか、ありのままでいてほしい。

終幕のキングズ・クロスで見せてくれた彼の新しい家族が──家にはクリーチャーがいればもっといい──新しい我が家が、いつまでも彼の帰る場所であり続けますように。

私の物語を読んでくださりありがとうございます。 スキやコメントをしてくださるだけで、勿体ない気持ちでいっぱいになるほどに嬉しいです。うさぎ、ぴょんぴょこしちゃう。 認めてくださること、本当に光栄に思っております。これからもたくさん書こうと思っておりますので、よければまた。