伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見ているのか」
目が見えないというのに、どう「見て」いるのか、とはどういうことか。そんな違和感を持つ人がどれくらいいるのか分かりませんが、私は本を読み終えて、この感想を書こうとして、タイトルを入力した今、初めてこのことに気付きました。もちろん著者は「目の見えない人が世界をどう見ているのか」について、複数の視覚障がい者からの話を踏まえ、様々な分野の知見を引用しながら、時には個人的な経験もヒントにしつつ、わかりやすく説明してくれています。確かに「世界を見ている」ということが理解できます。
でも、この本を読む前に、自分がどこまで「そういうこと」を理解していたか、今となってはよく分かりません。
というのは、私はろう者と接することは多かったため、聴覚情報が入ってこない人はその他から得られる情報を有効活用していて、それほど困っていないんじゃないか、という感覚になっていたからです。
もちろん、自分で情報収集する習慣があまりないのか、聞こえる人と同じような情報を代替手段で得ようとすることに熱心な人もいます。
でも、もっと目から得られる情報を大事にして、今はネットでいろいろ調べられるから調べて、あるいはろう者から情報を得て、たくましく生きている人をたくさん知っています。
だから、タイトルを見たときに、私が知っているような、ろう者が目から情報を補う感じで、耳からとか触覚からとか、補う感じなのかな、と想像していました。
読んでみると、そういう側面もありつつ、でも、そこにはもっと違う世界が広がっていました。確かに私は「耳の聞こえない人が世界をどう聞いているのか」について深く考えたことはなかったので、表面的なことしか分かっていなかったかな、と思いました。
ただ、それはもっと支援するために理解しなければ、といったことではなくて、この違いを楽しまないのは、もったいない、みたいな感覚です。
本では、空間、感覚、運動、言葉、ユーモアの5つの章に分かれています。それぞれ、目が見えない人が持っている「視覚」以外の感覚をどのように活かして生活しているのか、について書かれています。
例えば、空間については、歩くときに私たちは様々な刺激が絶え間なく入ってくる一方で、視覚障がい者には、向こうから歩いてくる人がどんな服を着ているかも、看板に書かれたイラストも、店舗の窓ガラスの向こうに見える商品も、何も入ってこないのです。著者はそれをこんな風に表現します。
見える人の手足が目の前の刺激に反応してつい踊り出してしまうのに対して、見えない人はもっとゆったり、俯瞰的にものごとをとらえているのかもしれません。
そういえば友人のろう者が「妹と同じ部屋で寝ていると夜中に電気をつけだして、何かと思ったら、蚊がブンブンうるさいと言ってきた。聴者は大変だね」という話をしていたことを思い出しました。人によるのかもしれませんが、私は誰かと話をしていても、他に気になる言葉が聞こえたときに、集中力を欠いてしまうので、情報に踊らされていると言われると、その通りだなと思います。
では、目の見えない人はどんな風に捉えているか、といえば、大きく地形的に捉えいたりもするそうです。著者が視覚障がいの方とちょっとした坂道を下っている時に「今、山の斜面をおりているんですね」と表現したそうです。
見えなくなってからの方が転ばなくなった、という話も出てきました。足を前に出してすぐ体重をかけるのではなく、足で地面の様子を確認しながら歩くというのです。もちろん慣れた道を行く時には、普通に歩きますが、慣れない場所を歩くときはそのようにします。そして危険を察知したらすぐに重心を変えられるような余裕を持っておく、だからかえって転ばなくなったという話もありました。
その他、以前読んだ、川内有雄「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」の主人公、白鳥健二さんのお話も出てきました。
あと、ダイアログ・イン・ザ・ダークの話も。
身体のどこかが使えなくなっても、他の部位の機能で練習して補っていけるように、訓練であったり、自然にであったり、それはいろいろなのだと思いますが、日々の暮らしの中で、ここちよく過ごせていけるように、誰もがなっていくのだな、と思います。
以前、白状を持った人が駅に向かうのかと思いきや、階段の手前で曲がってしまい、少しとまどっているように見えたので、少し緊張したのですが、
「こんにちは、駅に行くのなら、もう少し左側にある階段からですよ」
と声をかけてみたことがあります。その人は
「ああ、そうですか、ありがとうございます」
と言って、白状で地面を探りながら、無事階段にたどりつきました。
なんとなく本を読みながらその時のことを思い出して、あとから実は階段じゃなくて階段の裏を進んだ奥にある階段に行こうと思っていたんだろうか、と考えたりもしました。
それは通りすがりだったので、今となってはどうしようもないわけですが、関わる場合には、相手が何を必要としているのか、思い込みで接してはいけないだろうな、と思ったりもしたわけです。
レトルトのパスタソースは、中身をあけるまではクリームかミートソースか分かりません。でもそれを、インタビューを受けた方の一人は、運試しとして楽しんでしまう。それなら確かに大きな括りでは視覚的に分かったとしても、あ、この味は私が想像してたのと違う、ということはあるわけですし、じゃあそこで分かるようにしようと全てに点字やマークをつけるのは、そのコストを考えると合理的配慮の域を超えていて、違う気もします(もしかしたら、カメラを向けただけで文字の読み上げしてくれるソフトくらいありそうな気もしますが)。
読み終えて感じたのは、ただただ、視覚障害の方も楽しく生きているんだな、私には見ることができないような世界を見ているんだろうな、ということです。
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