「ベルリンの壁」とは
映画『アトミック・ブロンド』の
レビューを投稿しました。
この作品では、
東西冷戦を象徴する
「ベルリンの壁」が
大きなモチーフとなっています。
※ベルリンの壁:
’61~’89年にドイツの
ベルリン市内にあった壁。
今日の記事では、
「ベルリンの壁」について
掘り下げていきましょう。
ドイツが東西に分裂していた時代
第二次世界大戦で、
ドイツは敗戦しました。
この時に、西側はアメリカ、
フランス、イギリスが、
東側はソ連が
それぞれを占領します。
こうして敗戦後のドイツは
西側(ドイツ連邦共和国:資本主義)
東側(ドイツ民主共和国:社会主義)に
わかれることになったのです。
ソ連の支配した東側では、
100ヘクタール以上の土地が
強制的に没収されるとともに、
基幹産業の国有化が進められ、
「社会主義化」が
急速に進められました。
さらに、ドイツ国内の工場は、
ソ連へ移動、
ドイツの通貨を独自に大量発行し、
ソ連への投資に当てました。
こんな横暴を
西側が容認するわけもなく、
西側(米仏英)は、
新しい通貨を発行します。
これに対抗する形で、
ソ連は「西ベルリン封鎖」を
行ないました。
以降、西ベルリンには、
食料・原料・電力の供給がされず、
市民は困窮していきます。
これに対して、
今度は西側諸国が空輸で、
支援を行ないました。
東ドイツの社会主義政策
西ドイツは、
アメリカの支援もあり、
順調に経済を回復させ、
言論の自由も認められました。
一方の東ドイツは、
ソ連が土地や工場を
搾取したために
経済の立て直しが進みません。
また、国民に言論の自由も
認められないのです。
それでも東ドイツは、
改革の手を休めることは
ありませんでした。
今度は農民から農地を取り上げ、
集団農場での労働を強いました。
この政策は、農業に留まらず、
工場や商店にまで進んだため、
さらに多くの国民が
困窮したのです。
こうした状況を受け、
多くの国民が西ドイツへ
逃れていきました。
この頃は、
毎日、2000人程度の国民が
西ドイツへ移ったそうです。
’49年に東ドイツが建国されて以来、
その数は全体で、
約200万人にも及びました。
巨大な壁に閉じ込められる
東ドイツ政府は、
このままでは社会主義の国を
作ることができない
という危機感を抱きました。
そして、国民が逃げられないように、
「ベルリンの壁」を築いたのです。
この壁は、
ベルリンの中心部を横断し、
西ドイツ部分を取り囲む形で
作られました。
全長は155キロメートル、
高さは3メートルにもおよぶ
巨大な壁です。
東側の壁付近は
常に監視され、
西側に乗り越えようとする者は
容赦なく射殺されました。
ドイツ連邦共和国大使館・
総領事館公式サイトによれば、
その被害者の数は、
136人にもおよび、
その中には壁の近くで
遊んでいただけの
子どもも含まれるとのことです。
映画『アトミック・ブロンド』でも
KGB(ソ連国家保安委員)の
恐ろしさが描写されていましたが、
やはり、彼らには
血も涙もないんでしょうね。
ベルリンの壁崩壊、ソ連の終焉
しかし、国民たちも
この横暴に屈することなく、
'89年の10月からは、
東ドイツの国民たちが
大規模な路上デモを
展開しました。
とはいえ、
ベルリンの壁ができたのは
’61年ですから、
そこから28年もの年月が
経っていることを考えると、
国民の我慢も限界に
達していたのかもしれません。
そして、同年の11月9日の夜、
東ドイツ政府により、
公式発表がされます。
この発表をきっかけに、
歓喜に湧いたドイツ国民は
ベルリンの壁を打ち壊し、
数十年ぶりに再会した
両国の国民たちが
壁を乗り越えて
抱き合う姿を見せました。
このニュースは、私自身も
子どもの頃にリアルタイムで
観た記憶がありますが、
(当時の私は6歳)
このような歴史を知る由もなく、
「すごいことがあったんだなぁ」
程度の受け止め方でしたね。
’90年10月には、
東西ドイツが統合され、
’91年にはソ連が崩壊しました。
そもそも本国・ソ連の
経済状況も思わしくなかったのが、
ベルリンの壁崩壊に
つながったのでしょうね。
今も起こっている
戦争のことを思うと、
こんな話も遠い過去の話
とは思えない気がしてきます。
【参考サイト】
この記事が参加している募集
サポートしていただけるなら、いただいた資金は記事を書くために使わせていただきます。