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シューマンの指を語らせて(ネタバレ有)

    「シューマンの指」はつい先日、神保町で友人とデートした際に買った本だ。著者は奥泉光先生。買う前に一応口コミを調べ、とりあえずとんでもない低評価は付けられていないことを確認、次に値段とスピンの艶やかな黒を確認し、私は購入を決意した。口コミなど気にせずただ直感で買えばいいのだろう。例え評価が芳しくなくとも、ただの人を選ぶ本だという可能性もある。常々そう思ってはいるのだが、やはりどうしてもあらすじと評価を確認したくなるところに私の貧乏ったらしさが表れていると思う。
    「シューマンの指」という名前の通り、話はシューマンの音楽を軸にして展開される。「私」は音大を志す平凡なピアノ弾きだ。それに対し永嶺修人(まさと)は実力のあるピアニストの母の元に生まれ、自身も将来を期待されるピアノ奏者であり、おまけに美少年。二人と同じ高校に通った堅一郎もまた凡才であるが、音楽への情熱は人一倍ある。三人は音楽、とりわけシューマンを通じて親しくなり、他にも主人公の妹、修人の不美人なガールフレンド、美術教師などともそれぞれ交友をもつようになる。そして起こる二つの事件。「私」は手記を書きながら、当時のことを思い返していく。
    読み終わってもう一度口コミを見てみると、この本に対する印象が人によって全く異なっていた。ある人は「ある程度シューマンに関する学がないと理解できないだろう」と評し、またある人は「シューマンの入門書として優れている」と賞賛する。「一応ミステリーなのだろうか…」と自信なさげに紹介する人がいる一方で、「巧妙な音楽ミステリ」と表現する人もいる。私自身はというと、真夜中に読了したのち布団の中で感想をまとめているとき、この読後感を表すのにぴったりな表現を生み出した。
    「読む音楽」だ。そうとしかいえない余韻が、私の頭には残っていた。物語をのせたピアノの音が、そのときの私の耳にはまだ響いていた。森閑として美しいだけでなく緊張感をはらんだ場面、軽快できらきらした全能感あふれる場面、世界中から馬鹿にされる気持ちになり暴れ狂う場面。それらは決して途切れることなく、読者の心を存分にかき乱しながら演奏される。切り抜いたワンシーンは絵画のようでもある。口コミの中に「映画のようだ」というものもあったが、その人の読後感は私のそれに似ていたのだろう。シューマン論の部分も確かに濃厚だった、ミステリ作品らしい恐ろしさもあった、しかし私がこの本を最後まで一息に読むことができたのは、それらの理由からではないだろう。曲の途中まで聴いて続きはまた今度、なんてことをできるわけはないのだ。
    ただこの作品は、完全なミステリ小説とはいえないと思う。なぜなら多くの謎が、謎のまま終わったからだ。最後の一文字まで読んでも真相ははっきりとせず、読者に考察の余地を残している。そのためミステリ目当ての読者は物足りなく思うだろう。はっきりさせてほしい、ミステリとして不十分、そんな感想も散見された。しかし私は、これこそこの作品が「読む音楽」であるための大事な要素であるとも思う。最後に全て種明かしされスカッと読み終えるのもすっきりとした気持ちになり良いだろうが、その場合これほどの余韻はあっただろうか。あの美しい不穏さを感じられただろうか。ミステリ小説としては不完全でも芸術作品という見方をすれば、むしろ謎が全て暴かれてしまうのは野暮で品がないことだとすら思えてくる。
    私も高校三年生まではピアノを習っていた。しかしそれを楽しめたのは本当に僅かな時間だけで、ピアノを弾いている間はだいたい「弾かされている」「やめさせてもらえない」と嘆く気持ちでいた。だから、自分の演奏する曲以外のクラシック音楽、特にピアノ曲はできるだけ聴きたくなく、避けていた。「ピアノを弾くことが嫌い」なのと「クラシック音楽そのものが嫌い」ということの区別がついていない時期もあった。しかしこの本を手にしている間、私はずっとシューマンを聴きつづけた。それは少しも苦ではなく、寧ろ紅茶とチョコレートを合わせて聴くと心地がよかった。呪いと言うと大袈裟だが、何か絡まっていたものが解けたように思う。今度、名曲喫茶に行ってみよう。高校生の頃から気になっていたライオンが良いだろうか。奏者ではなく聴く者として、教養ではなく嗜みとして、私らしく軽い気持ちでクラシックに手を出してみたい。

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