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存在、在り難し。第1話

私の人生を某文豪の小説で引用し比喩するならば、こんな感じかもしれない。
「恥の多い生涯を送って来ました」
しかし、こんな自己肯定感低すぎゴミクズメンヘラ女の私に多大なる影響を与え、
『人間とは』
という基本のキの字から教えてくれた人が中学時代に存在した。

そもそも、現在の私とは一体何者なのか。
鬱病と発達障害(ADHD)で精神障害者手帳2級、生活保護で暮らしている。
親はどうしたのか?と問われると私はこう断言する。
「私に母はいても、父親などいない」
両親は離婚し、川原家は一家離散した。父は未治療の統合失調症、母は鬱とパニック障害、一人娘は鬱病と発達障害。一家離散の原因を話し出したらキリがないが、ただ断言できることは、父は
『我が子に愛情がない』
ということだ。
重度鬱病で精神状態が末期だった私はある日、統合失調症の症状であろう被害妄想で私に長年精神的攻撃をし続けていた父を、衝動的にペン立てに入っていたハサミで刺し殺そうとした。
この一件が川原家の一家離散の最大の原因であり、元凶は私だった。

事の起こりは平成元年(1989年)、私は川原家の一人娘としてこの世に生を受けた。
父親は製造業の万年ヒラ社員のサラリーマン、母は専業主婦。家はお世辞にも「キレイ」とは言い難い、借家の文化住宅だった。要するに、食う飯に困るレベルではないが貧しかった。俗に言う『貧乏』だった。
そんな家庭に生まれたが、幼少期は両親を「お父さん、お母さん」と呼んでいた。その頃は、まだ我が家が穏やかだったのだと思う。いや、自分が両親が『毒親』であることに気付いていなかっただけかもしれない。

私が幼稚園に通うようになり、本格的に他人と交流をするようになってから、少しずつ自分の特性や家庭環境に違和感を感じるようになった。違和感が「おかしい」と確信したのは、私が幼稚園の年長になった時だった。
一時期、先生の目の届かない集団下校の最中、同級生の男子5〜6人からいじめを受けるようになった。最初は他愛ないからかいや悪口だったが、それがどんどんエスカレートした。
最終的には
『車道に突き飛ばされる』
『背後から蹴り飛ばされる』
その域に達した。
子どもながらに私は考えた。
「私の何が悪かったのか?」
だが、幼い私には考えたところで無意味だった。
大人になった今だからこそ憶測できるが、恐らく幼少期の私はADHDの特性上多弁でうるさかったのだと思う。自分の両親からも
「お前は小さい頃知らない人にも平気で話しかけていた」
と後に言われるぐらい、多弁だったらしい。
いじめの原因も、恐らく多弁でうるさい私が目障りだったのだと思う。
いじめが1ヶ月以上続いた時、私は耐えかねて母に打ち明けた。その時の母からこんな言葉が出てきた。
母「あんた何かしたんか?」
子どもながらにショックを受けた。私が車道に突き飛ばされたり背後から蹴られたりという仕打ちを受けていたのに、娘をいじめた側を非難し怒りを感じるのではなく、私の非を疑われたことに、とてつもなくショックを受けた。

結局、母が幼稚園の担任に相談し、担任がいじめた連中を呼び出して「いじめは本当なのか?」と問い詰めたところ、白状したのでいじめが発覚し担任は怒り出した。
結果、担任はクラスメート全員の前でいじめた側を公開処刑のように私に謝罪をさせた。泣きながら謝罪をする男子達を前に、私は「いいよ」と言った。というか、「いいよ」としか言えなかった。
『これでいじめは終わる』
と思っていたが、その考えは甘かった。その男子達は、今度は別の女子をターゲットにしてまたいじめをしていた。当時の私は5〜6歳。そんな年齢で、私は色んなことに絶望を感じた。

(続く)

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