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私の履歴書 #最終章 東京での活動総括

(2020年9月13日日曜日)

 東京に異動してきた2007年から現在まで一貫しているのは日本と東南、南アジア地域の大学生との交流活動を基軸としてきたことだ。2011年~2013年にかけてはタイとネパールに居住しながら現地の暮らしを肌で感じてきた。

 活動の原動力となったのは、日本はこの地域の人々と共存する時代が近い将来やってくるという強い確信であった。しかし、当時の私の主張はなかなか受け入れられず歯がゆい思いをした。

 「待っていても何も始まらない」という経験をそれまでの人生を通じて学びとっていた僕は、「ならば勝手に始めるしかない!」と、AAEE,アジア教育交流研究機構という点のような小さな組織(非営利系一般社団法人)で志を共にする極少数の人々と地道に道を探った。しかし、僕には大学の専任教員という本務がある。本務を疎かにせずに両立するために、夜間、休日などの空き時間をほぼすべてこの活動に費やしてきた。実は東京に引っ越してきてから現在に至るまで、休暇らしい休暇はすべて合計してもわずか10日以内であったような気がする。振り返って考えると相当にクレージーな人生であった。

2008年~2010年

 不慣れな東京での暮らしに戸惑いながらも、2名~3名での勉強会を重ね、日本、東南アジア、南アジアの教育動向について議論した。この当時はあらゆることが漠然としていて、訳が分からず辛い日々。それでも「動き廻っていれば何か見つかる」とモットーに、どこにでも出かけて様々な分野の方々の話を聞いた。少しでもネットワークが見つかれば、そこに出かけて小規模勉強会を開催した。

2011年~2013年

タイ・ネパールを拠点に東南アジア、南アジア各国を周り調査。空き時間はほぼすべて現地の学生と過ごして学んだ。読み書きと睡眠時間以外、一人でいた記憶は全くない。さらにその学生たちを通じて“友達”の輪が広がっていった。彼らの連絡手段であるSNSを使いこなし、知り合った学生とは時間の許す限り個人的なやり取りをして交流を深めた。結果、数年かけて僕はあの地域に強大な若者ネットワークを構築した。「ローマは一日にしてならず」僕が自分の足でアジア中を歩き回って築いてきた人脈は、帰国後、僕をあらゆる場面で援護してくれた。

2013年~2014年

 帰国後、多くの国の学生や大学教員が、本務校である東京経済大学との交流を熱望した。しかし、僕は無名の一大学教員。自己判断でできるのは、担当するゼミ学生に交流機会を与えることくらいだった。しかし、その「海外ゼミ研修」は、現地の日本ブームも相まって僕自身があっと驚くような‟化け物“のような凄いプロジェクトと化した。現地の新聞やテレビに連日取材され、我々が登場する舞台にはドライアイスや花火まで噴き出してきた。2014年のプログラムはベトナム外務省のホームページにまで紹介されたほどだ。しかし、帰国後、「これは大学の宣伝になる」と確信し、掲載された新聞を広報・国際交流セクションに持参したが、予想外の‟無反応”。これで僕の意思は固まった。「学外に出よう!」

2015年~

 そんなタイミングで発生した2015年のネパール大地震。運のいいことに、最強に「使える」人材が身近に存在した。僕自身の長男である。ネパール地震が発生したのは彼が上智大学総合グローバル学部に入学して僅か3週間後。稀有なネパール語話者、日本人・ドイツ人でもある彼は、多くの同級生を連れて応援に駆け付けた。ネパール地震復興キャンペーンは、彼らの助けなしには実現できなかった。実はAAEEに今でも上智大生が多いのは、彼が上智大学在学中にひたすら声をかけ続けてくれたおかげでもある。僕は無遠慮に彼の交友関係を浸食し続けた笑。

 この過程で僕はある大発見をした。大学教員 vs AAEE、二項対立で考えていたのだが実は両者は相互支援関係にあったのだ!僕は、空き時間を見つけては、異文化者間の交流を促進する手法を求めて学び続けていた。読みこなした文献も相当量になっていた。しかし、僕はそれを自分の趣味としか捉えておらず、このために大学教員としての本業を疎かにしてはいけない!と自分に喝を入れ続けてきた。ある年、それまでの活動を整理することだけを目当てに論文を書いて投稿した。人に読んでほしくないので、誰にも言わなかったのだが、親切な同僚が「素晴らしい研究をしていますね。びっくりしました!」と言ってくれた。思いがけないフィードバックであったが、その瞬間、目の前がぱっと大きく開けた気がした。

 以来、AAEEの活動をすることに何の引け目も感じなくなった。AAEEの活動にも本務校の教育活動にも真剣に取り組み、その成果を世界中の教育実践家や研究者と共有するようになった。やりたいことに好きなだけ取り組めてそれを「仕事だ!」と堂々と言える。これほどの幸せは環境はない。

2020年~

 本務校に恩返し中(詳細略)

まとめ

 僕の活動に欠かせないのは学生。特にアジア各国の学生と協働するようになってから、完全に夜型人間と化してしまった。例えばネパールの学生と話す場合、彼らの都合のいい時間は夜9時頃、しかし日本では深夜帯である。結果私が眠りに着く時間は平均して深夜2時くらいになってしまった。翌朝起きる時間は滅茶苦茶、毎朝同時間出勤の義務がない特殊な職場ではあるが、睡眠時間はバラバラな生活がもう8年以上続いている。しかし、やりたいことをやっているので苦にならない。

 学生が主体となって作り出す国際交流空間。そこから得られる多文化共生の学び。SDGs ゴール17「グローバルパートナーシップ」到達期限である2030年まで後10年。僕たちは、あなたたちは、何をなし遂げることができるのか。楽しみでならない。

そんな夢を持てる今の自分に到達するまでには随分と時間がかかったが、頑張ってきて本当によかった。

おわりに

これで「私の履歴書」シリーズ見事に終了。春に開始し大学の夏季休業中に完了しようと心に決めて取り掛かったが、ギリギリ目標を達成した。ただし、私一人の力で実現できた訳ではない。東京経済大学関昭典ゼミ所属生、内田充俊氏のたゆまぬ叱咤激励と協力がなければここまで辿り着けなかった。心から感謝したい。

 今後は、その時々で思いついたことを話題に不定期に投稿していきます。

なお、AAEEでの活動詳細は➡https://note.com/multiculturalism/n/n36bec34d0aa0

また、関昭典ゼミの活動詳細は

➡︎https://note.com/sekiseminar

➡︎https://www.facebook.com/東京経済大学関昭典ゼミナール-Akinori-SEKI-Seminar-TKU-239668503092673/

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