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「今を生きる」ための一音

つい先日、あるコンサートに奏者として参加した。個人的には練習不足だったけど、コンサート全体としては大成功。とても良いコンサートだったと、各方面からご好評をいただいき、私も参加してよかった、素直にそう思えたコンサートだった。

今はそう思えるけど、実は本番前日の夜、いやもうずっと前から、私はコンサートに出ると決めた自分に腹が立っていた。

平日は仕事。休日はコンサートの練習にとられ、体が思うように休まらない日々。それに加え、舞台に上がるというプレッシャーが日に日にのしかかる。別に対して目立つようなソロを弾くわけでもないのに、変な音を出したらどうしようとか、本番中にトイレに行きたくなったらどうしようとか、そんな不安要素ばかりが頭を占拠する。いや、むしろ自分から不安で頭をいっぱいにしているのだ。本番前は、毎回こう。音楽を楽しむというより音楽に苦しめられている。この不安癖は本番1~2週間前くらいから顕著になり、本番当日前夜は言うなれば「憂鬱の極み」である。こんなに憂鬱になるくらいなら、参加するなよ。それでも結局毎回参加する。そういう毎年学習しない自分に腹が立って仕方がなかったのだそのときは。

でも終わってみたらどうだろう。不思議なことに、憂鬱さから解放されて、やっぱ音楽っていいわ・・・とさわやかな気持ちになっている。喉元過ぎればなんとやらとはまさにこのこと。毎年、この繰り返しで、私はずるずる音楽をやっている。

本番前夜と本番後夜。どちらの夜も、私は私であるはずなのに、夜をまたいで音楽にネガティブ→ポジティブな感情になり、今日の自分は昨日の自分の連続ではないんだなあとしみじみ思い知らされている。後者のポジティブな私で本番前夜を迎えられたら、どんなにいいだろうか。これまで何回かコンサートには参加しているけれど、残念ながらそういう気持ちで本番に臨めたことはない。いつも不安な影がつきまとって、それから逃れるために練習する。まるで、いたちごっこ。でも今回、私はそんないたちごっこも諦めて、そこそこの練習でコンサートに臨んだ。結果やっぱり弾けない箇所やミスした箇所がいくつもあって、もっと練習すればよかったかなと反省したりもするけれど、どんなに後悔しても、当然ながら、もう本番前には戻れないわけで。


そんな時、尊敬する指揮者の方が言っていたことを思い出す。


「本番はミスしてもいい。ミスすら、本番の演奏では愛おしいですから。」


ミスすら愛おしい。優しくて、好きな言葉だ。思えば、音楽は「今」という一音一音のつながりだ。私たちは、今を生きていたいとは思うけど、今を生きていると実感できることは少ない。怠惰に時間を持て余したり、いたずらに時が過ぎ行くのを待ったりする。そう思うと、音楽を演奏するというのは、一番手っ取り早い「今を生きる」なのかもしれない。ミスや弾けなかった箇所は、かつての「今」に戻れないからこそ、その瞬間に真摯に向きあった結果だと。そう考えれば、ミスだって弾けなかった部分だって、愛おしい。


後日、コンサートに誘った友人から、「いけなくてごめんね。どうだった?」と聞かれた。私は「個人的には失敗したけれど、コンサートは大成功だったよ。」と答えた。

友人は「失敗して怒られないの?」とふざけ半分で聞いてきたけれど、「みんな(少なからず)失敗しているから大丈夫。」そう答えた。

すると友人は、

「みんな失敗するのに、成功するの?すごいね。」

そう言った。

その言葉に、瞬間はっとさせられた。確かに、すごい。失敗と成功みたいな、相反するものが音楽においては、共存する。音楽はそんな多少の矛盾を追い越し、奏者を超えた存在として成り立ってしまう。そんな音楽の懐の深さに、今後もあやかりつつ身を任せつつ、音楽を続けていきたい。そう思う。

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