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『はて知らずの記』の旅 #6 福島県・福島(文知摺観音・松原寺)下
(正岡子規の『はて知らずの記』を頼りに、東北地方を巡っています。)
人間の屑
再び阿武隈川を渡った。
次の目的地は「葛の松原」である。
徒歩一時間以上を見込んでいる。
燃料が必要だ。
橋のたもとのドン・キホーテで、うぐいすぱんを買った。
皮に包まれた緑の餡を齧りながら歩いた。
「葛の松原」とは、どういう処か?
これは、『撰集抄』(せんじゅうしょう)と呼ばれる鎌倉時代の書物に登場する地名だ。
『撰集抄』は、西行法師が書いたものと信じられていた。
放浪中の西行が、みちのくの葛の松原と呼ばれる地を通りすがった。
松の木の下に、竹の笈(おい)と麻の衣が放置されていた。
その主は、傍で息絶えていた。
誰が亡くなったのだろうと思って辺りを見回すと、松の幹を削って文章が書かれていた。
主は覚英と云う高僧だ、と伝えていた。
関白の家に生まれ、奈良・興福寺に入ったが、二十歳の頃に、高い位を捨てて遁世した。
これを見て西行は、ああ、世捨て人はかくありたいものだ、と深く感動するのである。
その覚英が詠んだとされる歌が、松に読めた。
世の中の 人にはくづの松ばらと よばるる名こそ うれしかりけれ
こんな松原に棲む自分は、世間から「人間の屑」と呼ばれているけれど、本望だ。――
「葛の松原」は、そう言い放った覚英の臨終の地である。
伊達駅の北の睦合(むつあい)と云う踏切を越えて北上した。
参道のように真っ直ぐな道が上っている。
左手は水を張った田圃で、灰色のサギがふっさふっさと羽を揺らして飛んで行った。
右手も同じく田圃だが、視界には大きく新幹線の高架が入り、その上を高速道路が曲線を描きながらクロスしている。田舎ながらも近未来チックな光景だ。
風が通った。
何も無いのだが、雀のさえずりと、烏の啼き声と、新幹線の通過音と、高速道路を行く車の騒音が混じって、聴覚的には賑やかだった。
松は、まだ見ていない。
高速道路の下をくぐった。
上の看板は「桑折JTC」と読めた。
目の前に山が迫ってきた。
左折して、もう一つ高速道路の下をくぐった。
この辺りは、東北自動車道と相馬へ行く道との結節点になっているようだった。
右手は雑木林になっている。
目指す松原寺は、ぐるぐると巻く銀色の自動車道のすぐ傍にあった。
参道らしき急坂をのぼった。
左右に注意していたが、松の木は見当たらなかった。
墓地の傍に、ひときわ高い木を見つけたが、おそらくモミと思われた。
本堂の前に来た。
「松原寺」と読めたが、字体が変わっていた。松の字の「木」と「公」が縦に配置されていた。
振り返ると、福島盆地が見下ろせた。
今朝歩いた信夫山が、はっきりと見えた。
小さくて指摘はできないが、文知摺観音も、この視野の中に入っているだろう。
思えば、あちらの山からこちらの山まで、盆地を横断して来たことになる。
高速道路には、血管の中の血球のように車が流れていた。
偏に山にもあらず、又ひたぶる野ともいふべからず。すこし岡と見えて、木草よしありてしげり、清水四方に流れちれり。世を窃かにのがれて、此江のほとりに住みたきほどに見え侍り。
と『撰集抄』の作者は書いている。
立地の描写は合致していると思われるが、高速道路から放たれる漠然とした騒音が切れ目なく続いていて、ここに静かな庵を結ぶことは想像し難かった。
他に聞こえてくるのは、風に動いた卒塔婆がたてるカチカチという音だけだった。
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真実か空想か知れない覚英のエピソードにでも思いを馳せようかと思っていたのだが、肝心の松が一本も無いので、どうしようもなかった。
何かゆかりのある物はないのか、と境内を歩き回っていたら、石段をのぼった先の小さな堂の脇に、「葛の松原碑」なるものを見つけた。
一七六八年に、福島藩の重臣の河原栄機と云う人が建てたそうだ。
石に彫られた文章は、西行撰集抄に書かれている地はここだ、と伝えているようだった。
栄機が詠んだ歌――
《なき跡も 名こそ朽せね 世々かけて 忍ぶむかしの 葛の松原》
時間の順序として、子規はこの碑を見たかもしれない。
しかし、『はて知らずの記』では触れられていない。近くの茶屋で地元民とかわした雑談について書かれているだけだ。
《今も松原といふ名は残りたれど松林なども見えず。昔は如何ありけん。》
と一時は書いていたようだから、子規が来たとき、すでに松は無かったのだ。
芭蕉の時代はどうだったのか。
芭蕉もこの傍を通ったはずだが、『おくのほそ道』にも曾良随行日記にも書かれていない。芭蕉が『撰集抄』を知らなかった、ということはないだろう。
松林は、芭蕉の時代からすでに無かったのではないか。松が無いので何とも書きようがなくて、黙殺したのではないか。
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騒音が続いている。
《山にもあらず、又ひたぶる野ともいふべからず……》と書いた『撰集抄』の作者は、ここを訪れている気がする。そうでなければ、この山でもなく野でもない中途半端な土地の感じは、ああも的確に表現できないと思うからだ。
しかし松林は消えている。
林どころか、一本も見えないのだ。
植生は、そんなに簡単に変わるものだろうか。
もちずりの石と同じく、葛の松原伝説も、真実ではないが、完全に嘘というわけでもない、との印象を残した。
無能の松
松林も茶屋も無かったせいだろうか、今回は子規とのシンクロ感がいまいちだったな、と思いながら桑折の駅へ向かった。
その満たされない感じは、道沿いに残る石造りの倉や土壁の家を見ても変わりなかった。
右手の遠方には、霊山の稜線が、ゾウが鼻を伸ばしたように見えていた。
カーブの陰から、白いヘルメットを被った中学生が自転車に乗って現れ、「こんにちは」と声を掛けて過ぎ去った。
東北本線の線路の下を抜けて、車の走る道に出た。
むかしの奥州街道だった。
ここは芭蕉も歩いた道だな、と思いながら、左右に注意して進んでいると、
《明治天皇桑折御小休所》
と書かれた大きな石柱を見た。
寺のようだった。
何だかただならぬ雰囲気を感じて門をくぐった。
直角に折れた砂利道の参道を進むと、目の前に藤棚のようなものが現れた。
陰の中に入ると、中央に、捩れた太い樹の幹があった。
それで、これが何物であるかに気づいた。
藤棚に見えたものは、一本のアマカツの樹だった。
それが根元から枝先にいたるまで、捩れに捩れているのだ。しかし不思議なことに、捩れまくっていながら、全体としては巨大な椎茸のように整った構造をなしているのだった。
フラクタル図形の中に入り込んだような気分になった。
これは珍しいということで、明治天皇巡幸の折、御蔭廼松(みかげのまつ)と命名されたらしい。
松原で見ることのできなかった松に、思わぬ処で出会った。
自分の気持ちは少し慰められた。
ここまで来れば松はあるではないか。
葛の松原の地は、本当にあそこだったのだろうか。再び疑問が頭をもたげた。
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椎茸の笠の下を抜けると、お堂の前に出た。
額に「無能寺」と読めた。
凄い名前だな、と思って後で調べると、無能上人ゆかりの寺とあり、なおさら驚いた。無能の弟子には、不能もいたらしい。
この無能と云う僧は、ちょっとした有名人だったようだ。
『桑折町史』によれば、
《無能上人は世に稀な名僧で、常に仏心の権化として行動し二〇年間一度も横臥して眠られたことがなく、常に端坐合掌のまま眠られ、日に三度の食事は精進料理であり、一回に十万回も南無阿弥陀仏を唱えたと言い伝えられている。上人は奥州諸国に法をひろめたので、師徳をしたい着得する信徒が多く、その数十万余人にも達したという。》
なかなか激しい人である。
別の資料には、淫欲を断つため男根を断却した、とある。
一七一九年、三七歳で没している。
クズの覚英といい無能といい、僧の世界は探ってみると面白いかもしれない。
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もちずりには東宮行啓の碑があった。無能寺には天皇巡幸の碑があった。子規の踏み跡を辿る旅が終わったら、次は天皇・皇族の巡幸・巡啓ルートを追ってみるのもよいかもしれない。
陽が傾いている。
この日は、帰り間際に色々と着想の得られた一日であった。
本日の旅行代
ドン・キホーテ福島店 うぐいすぱん 八四円
合計 八四円
※福島駅、桑折駅までの交通費を除く。
(次回に続く)
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