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河野洋平・元衆議院議長のオーラルヒストリーを読む 「空気」が支配した細川護煕とのトップ会談

 第71・72代衆議院議長・河野洋平のオーラルヒストリーが公開された。

 かなりざっくばらんに語っている。
 面白い、と感じたので紹介したくなった。

「政治家は絶対やりたくない」

 河野洋平と言えば《総理大臣になれなかった自民党総裁》だ(もう一人は谷垣禎一)。
〝不運な人〟のイメージが強い。
 二世議員だが(父は河野一郎)、「政治家は絶対やりたくないと思っていたんです」(19頁)と言うだけあって、その経歴は一本道ではなかった。

①丸紅に就職
②自民党議員として当選
③自民党を飛び出し、新自由クラブを結成(野党を経験)
④自民党に復党
⑤自民党総裁
⑥生体肝移植を受ける(息子の河野太郎から)
⑦衆議院議長
⑧政界引退

「もう一つの保守」として野党を運営することの難しさについて語った部分は興味深い(③)。
 しかし、やはり一番面白いのは、河野が自民党総裁に就いていた時代(⑤)及びその前後、1993年から1996年にかけての宮澤→細川→羽田→村山→橋本と内閣総理大臣がコロコロと変遷した平成の〝混沌期〟について語った部分だろう。

 中でも「ええッ」と思ったのは、細川・河野のトップ会談で決まったという政治改革についてである。

 イザナギとイザナミが混沌を矛で掻き回して島を生む、という話が『古事記』にある。

 あれと同じように、政治改革に関し、細川イザナギと河野イザナミの決定次第でどうにでもなる、というフワッとした未定形の時間が1994年1月に生じていた。

○河野 トップ会談で決めたのは、小選挙区制でいくよ、それから企業献金はやめるよという、この二つが政治改革の車の両輪だと僕は思っていたんです。(…)それで、時間が経過して今考えてみると、小選挙区制は良くも悪くも制度としてできて動いているけれど、企業献金の方は全く動かなかった。だから、今は両輪が片っ方しか回っていないという感じです。

125頁

 トップ会談で決まったことは2つあった。
①企業献金の廃止
②小選挙区制の導入

 ところが河野によれば、①は実現しなかった。
 ②は実現したが、2人とも良い制度とはまったく思っていなかった、と言うのだ。
 この2点につき、オーラルヒストリーから引用して紹介することにしよう。

①企業献金の廃止「廃止しなきゃ絶対におかしいんですよ」

 河野によれば、企業献金廃止はトップ会談の決定事項だった。
 政党助成金は、廃止する企業献金の見返りだった。
(以下引用中の「紅谷」はインタビュアーの元議長秘書・元衆議院事務次長)

○紅谷 この改正では、政党助成の制度を新しく導入して、国民一人コーヒー一杯分二百五十円ということで、総額が当時は三百億円余りでしたが、公費として政党に分配されることになりました。一方で、企業献金については、すぐにゼロにするわけにいかないので、五年後に廃止しましょうということで、取りあえずの間は、資金管理団体を一つだけ認めましょう、その代わり政党助成についても五年後に見直しましょうというのが附則にありました。しかし、政党助成の見直しはされず、片や政党に対する企業献金はそのまま残っているわけですから、それは二重取りじゃないかという意見があります。
○河野 それは、企業献金を廃止するから、一方で公費助成をするというトレードオフの関係なのに、終わってみたら、こっちは取ってあっちはそのままという、今は当時の考えとは全然違う状況になっていますよね。
 あの頃の細かいことを思い出してみると、政党助成をするにあたり幾らぐらいが適当か、結果、三百億ぐらいということになったけれど、あの根拠は、国民にコーヒー一杯だけ我慢してもらおうというのが事の起こりで、あの一番初めは、田川誠一さんがやったコーヒー一杯運動なんです。田川さんは個人の政治資金を、支持者にコーヒー一杯我慢して私に下さいという運動をやって、それが下地にあって、新自由クラブは一人二百五十円、コーヒー一杯の政治献金と言っていたんです。
 それが耳に残っていて出てきたんです。それは、田川さんが言った後に武村さんも言い、それで何となく国民にコーヒー一杯、三百億と言われたんですよ。だから、あの三百億円というのは、本当は一億国民みんなから取るという話ではなくて、個人献金だったんです。
 一方、企業献金の廃止は、個人献金に振り替えろという話はなかなか難しいだろうから、企業献金を止めて公費助成にしようということでした。だから、公費助成が実現したら企業献金は本当は廃止しなきゃ絶対におかしいんですよ。
 しかも、激変緩和のため五年後に見直すと法律の附則に書いたのにスルーした。見向きもしないでスルーしてもう二十五年たったんだからね。
 政治改革の議論が起こったときは、経団連も、傘下の会員に企業献金は慎もうと言っていたのに、最近の経団連は、自民党に献金してくださいと進んで言うようになっているからね。
 この頃は、企業献金が多いから税制を始めとしていろいろな政策がゆがんでいる、庶民から企業の方へ政策のウェートがかかって、企業献金が政策のゆがみを引き起こしているから、それを止めろということだったのに、それが今またああいうふうになっているというのは、本当におかしいと思いますね。

125-126頁

 なお河野によれば、政治改革は選挙制度改革にすり替えられた。

○河野 (…)これも言っておいた方がいいから敢えて言うけれど、政治改革の議論が起きたときに、時の内閣総理大臣宮沢喜一さんは、腐敗防止法を作ろうと。つまり、金の問題なんだから腐敗防止法を作ろうと言ったのを、あの頃はそんな腐敗防止じゃなくて選挙制度だというふうにどこかで変わってしまったんだね。僕に言わせれば、あれはどうも民間政治臨調で誰かが誘導したとしか思えないんだ。
○紅谷 大きな事件でも起こらない限り、政治資金の問題に手をつけることがないのは残念ですが、ここは原点に立ち戻る必要があるのでしょうね。
○河野 そうですね。確かに昔は何億というスキャンダルがあちこちにあったのが、最近はそれが何百万とか何千万とか、ちょっと一桁小さくなったということはあるかもしれないけれども、それで良くなったかどうかというのはちょっとね。それがまた、見えているところはそうだけれども、見えないところであるとすれば困りますよね。

126頁

②小選挙区制の導入「私はやはり失敗だったと思っているんです」


 河野によれば、首相の細川ともども小選挙区制が良いとは思っていなかった。

○紅谷 (…)トップ会談でのお二人ですが、細川さんは必ずしも小選挙区制論者ではなく、自分は穏健な多党制で中選挙区連記制を想定していたけれども、小選挙区制になったという話をしておられましたし、河野先生も必ずしも小選挙区制が良いというわけではなかったと思います。
○河野 そうそう。僕は、最後までどっちがいいとか何がいいとか言わなかったけれど、終わってから本心はというから、本心は小選挙区制ではなく定数三人の百選挙区がいいと言ったんです。それは麻生さんあたりがしきりに言っていて、誰も支持する人がいなかったけど、僕はいいなと思っていた。細川さんも小選挙区制がいいとは思っていなかった。
○紅谷 お二人がいいと思っていなかったのに小選挙区制になったのですね。
○河野 終わってから、まずかったかなという話をしたけれど、細川さんは、まあまあじゃないですかと言っていたね。
 彼にしてみれば、ほっとしたわけでしょう。まとめなかったらあそこで内閣は終わっていたでしょうから、何としてもまとめたいというので、べた降りすればまとまるということでした。
○紅谷 細川さんは、次の常会で議員辞職され、その後は口を閉ざされたままで真意を話されていません。
○河野 細川さんはどこでも説明していないんじゃないかな。
 僕は、あの後に加藤紘一さんがやっていた中選挙区制議員連盟に呼ばれて、あれは失敗だったから、もう一回みんなで考えてみてくださいという話をしたんです。
○紅谷 そこには私も御一緒したのですが、加藤さんや共産党の穀田さんの呼びかけで、各党が参加していましたね。
○河野 そう、各党全ていましたよ。だけれども、結局あれで終わりだったよね。

127頁

 2人とも望まない制度が実現してしまう過程は、まるで「空気」が支配したかのようである。

○河野 振り返ってみると、いろいろ問題があったんです。今の話のように、細川さんも私も考えていることと出した結論は全く違ってしまった。それじゃ、なぜそのとき言わなかったんだと言われるだろうけど、少なくとも私がいた環境は、党の総裁が小選挙区じゃなくて中選挙区でいいんじゃないかなんて、一言でも言ったりそぶりをしたら党は全くバラバラになって、例えば総裁一任ということにはならなくなってしまうという状況。
 だから、あのときは最後まで口をつぐんで、何を考えているか分からぬ、あいつはばかじゃないかと言われるほど何も言わなかったから、最後は総裁一任になって、党首会談に行けたと思うんです。あれが、私が中選挙区制がなんてちょっとでも言っていたら、改革派と言われる小選挙区推進グループは、党を出ていったかもしれないという状況で、自分が何を考えているかを表に出すことができなかったことが一つ。
 もう一つは、とにかく党が割れるんじゃないかと思っていました。守旧派と言われる人たちと改革派と言われる人たちとは物すごい勢いで激突しているんです。しかも、その激突がどっちかが圧倒的に多ければ問題ないんだろうけれども、大体似たような勢力で割れると真っ二つになるんじゃないか、過激なのは改革派の方で、改革に躊躇するならすぐ出ていくみたいな話だったんですよ。この話の裏には他党からの働きかけがあって、かなりあからさまに自民党を割ってしまえと考えていた節があった。だから、党の執行部は党を割らない、割っちゃいけないということが頭の大半を占めていて、小選挙区が良いか中選挙区が良いかということは口に出せないし、どっちが良いという研究すら余りできないという状況だった。あの頃の私のメモを見ても、小選挙区になれば何がプラスかマイナスかというメモはあるけど、そんなに深く書き込んでいないんですよ。
 ですから、通り一遍で小選挙区にすれば金がかからなくなるとか、党の意思決定がはっきりとできる、それは選挙にあたって中選挙区だと賛成の人も反対の人も公認されているから、党はどっちなんだという問題がある。一方で自民党という党はいろいろな意見があった方がいいんだという守旧派の主張もあったりして、どうすればいいかということまで深く考えていないんです。
 それから、本当に中選挙区は金がかかって小選挙区では金がかからないのかと言われても、評論家や学者はそう言うけれども根拠がなくて分からない。今にして思えば、本当はそんなところはもっと整理しておかなきゃいけなかったのが、党を割らないために、まあまあというのが精一杯だったんです。
 細川さんについては全く推測でしかないけど、私よりもっと辛い立場で、何しろ日本新党という政党は四十議席ぐらいしかないのに首班指名で推されたわけだから、拠り所がないんです。小沢さんは、小選挙区でどうしてもいくんだと言っているから、背中にピストルを突きつけられて、違うことを言ったらドーンと撃つぞと言われ、一方、最大政党の社会党は、小選挙区に反対だというから、これは本当に辛かったと思うんです。
 だから、細川さんにしてみれば全く形勢が悪くなって、自民党案を丸呑みでもいいからまとめるというのが、保身とは言わないけれども、ダメージが少なかったんじゃないかと思うんですよ。
○紅谷 確かに、最後の合意は、前年十一月のトップ会談で蹴った内容でしたから、細川さんが完全に丸呑みしたと思われるものでした。
○河野 一回目の党首会談のときには全然受け付けなかった案を、二回目は、ほとんどそれで結構ですとなったんです。だから、細川さんは、どんな案であれまとめなきゃいかぬという立場にいたと思うんです。それは、僕もややそれに近い立場で、あそこでまとめられなかったら政府案になる可能性もあるから、僕もまとめなきゃいけないという立場です。
 だから、何を考えていたかといえば、どうすればまとまるかということになって、二人とも自分が考えていた案とは違う結果になったわけです。
 しかし、二人とも、自分の考えていた案は個人的に考えていただけでどこでも審議していたものではなくて、終わってからの愚痴話というか昔話としては言うけれども、全く現実的な話ではなかったと思うんです。
○紅谷 小選挙区制での選挙は、平成八年が最初でもう八回の選挙を行っています。
○河野 小選挙区になれば死に票が多くて、本当に世論の大多数を代表するのかどうか。だから、比例代表を組み合わせて拾おうとしたけれど、その比例代表は、やってみたら小選挙区で落選した人を救うような機能を果たし、少数意見を汲み上げるということにはほとんどなっていないと思うんです。
 ですから、私はやはり失敗だったと思っているんです。

127-128頁

 河野は党をまとめなくてはならない。
 細川は改革を成立させなくてはならない。
 それぞれの苦しい事情からハプニング的に生まれたのが小選挙区制だった。
 イザナギもイザナミも望まなかった子が誕生して、はや30年が経つ。


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