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321日間のNZ生活。/NZワーホリ🇳🇿

 2023年6月25日から、2024年5月12日まで、321日間。ニュージーランドでワーキングホリデーをして過ごした。ニュージーランドで過ごす時間は、日本で過ごしていた時間とはまた違った次元を流れていて、今までとはスピードも長さも濃さも全然デタラメだった。

 ニュージーランドに行く前の、26年間は普通だった。幼稚園から大学生までなんとなく枠の中に収まって、所謂一般的なルートを歩み続け、卒業と同時にいつの間にか日本社会の枠に移行されて、社会人である一般的なルートの上を進んでいた。
 その後も永遠に続くだろう普通のルートから、ちょっと別のルートを選択した。2022年の9月頃。深く考えず、これから安定的に続いているだろう道と荒れた先の見えない暗闇の中の道とどちらが適切か吟味せずに選択をした。軽率だったと思う。本当に、軽率。別に後悔はしていないが、もっと考えれた、今思うと。

 こんな書き方をしていると、行ったことや決断したことを後悔しているように見えるかもしれないけど、そんなことはない。過去の、NZに行く前の自分というものを、NZから帰ってきた今の自分が客観的に捉えてみての感想。あの時はあの時で、当時の自分は必死で、当時の自分は甘くて、当時の自分で見えている世界はとても狭かった。ただそれだけの話だと思う。

 そうやって今思えているというこの事実と、何があってそう思えるようになったのか、ワーキングホリデーでの経験を言語化していきたい。

涙のワケ

 軽率だった。と書いたが、なぜその感想が出てきたかというと、NZに着いて1週間で涙が溢れた夜があったから。

 当時は、カレーを食べながら涙がこぼれてくる状況に、不安とか心配とか、諸々の感情が溢れていたんだと思っていた。それは間違っていなくて、ではなんでそんな不安とか心配が溢れたのか。

 そもそもワーホリという決断すらも、自分で選択できたのか、ずっと不安に思っていたからだろうと思う。周りの人からの見られ方や、評価、体裁を気にして生きてきたからこそ、『ワーホリに行く!』というのも、周りから見た"のすけ像"に当てはめていただけなんじゃないかと自分に自信がなくなり不安がいっぱいになった。

 自分の人生なのに、自分で選択できていないような感覚。自分に自信がなく、周りからどう思われているのか気にしてきた人生だった。

自分には自分らしさがある、だからみんなにもその人らしさがある

 そもそもの話だが、NZへワーホリに行こうと決めたのは、『熱中して打ち込めるものを見つけたい』という思いがあったからだ。他人からの見られ方を気にしていたからこそ、自分がこれを成し遂げた!というより、周りの人からはよく思われたかな?を、まず考えてしまっていた。だから、実感として自立して生きている!って感覚がなく、”それなり”でずっと生きてしまっていた。

 そんな時に出会ったのが、「才能」という考え方。みんながみんな、自分の得意なこと・できることがあって、できないことがあってもそこから派生して、できるようになっていることがあるということ。自分は自分で良い所があって、みんなにもみんなの良い所があるんだって心から思えるようになった。

 NZは人が少なくて、周りからの目線が気にならなくて済む。だから、自分のいたいようにいれば良いんだって気持ちになれる。その環境にいるからこそ、自己理解が進むし、他者受容も進む。自分はもっと自分らしくいたいなと思うし、周りの人もその人らしくいたいだけなんだろうなって思えてくる。

 文化も言語も、宗教も環境も違う人たちは、自分とは違うってわかる。でも、同じ日本人の友達と話しても、それぞれ違うなってわかるようになった。
 同じ価値観を持っているだろう社会人のオンラインコミュニティで出会った友達と2週間ぐらい一緒に旅をした。日本語、食べるものも自炊して日本食、お互いに共通の日本人の知り合いがいるからこそ盛り上がる会話がある。でも、違いがたくさんあった。1日の時間の使い方、宿の決め方、荷物の詰め方。外に出かける前に、大体の夜ご飯の想定をして出かけるのが普通だと思っていたけど、それは全然普通ではなかった。

 自立して生きられていないなあと思って、“自分らしさ”ってなんだろうって思ってたけど、それは自分の才能・癖・行動原理・感情・視座にもろに染み付いていた。実は、自分らしいものは無数にあって、ただ自分がそれを見えていなかっただけだった。
 みんな違ってみんな良いっていうけど、みんな違ってみんなも自分も良い、だろうと思う。周りからの見られ方を気にしなくて良い環境にいて、自分と他人の違いをもろに実感したからこそ、ようやく自分らしさに目を向けられるようになった。

 ようやく、自分自身を受け入れられるようになった。

 自己受容できる深さが変わり、他者への理解も進んだおかげで、自分のできるだろうことと、自分の実現させたいビジョンが生まれた。
 自分も周りのみんなも「自分は自分で良いや」と自分のことを好きでいられている状態であり続けることを、目指したいビジョンとして掲げた。そのために何をしていこうか、アクションを一つ一つ進めていった。

もっとワーホリらしく過ごせたんじゃないか?

 NZでの生活を一言で表すと、「自己受容」。いつもNZ行ってどうだった?て聞かれると、「自己理解が超絶進んでよかった」と答えているように、めちゃくちゃ自分自身に向き合った期間になった。

 その話ではなく、NZならではの話はどうだったかというと、酸いも甘いもあった。それはそれはハードな毎日だったと思う。毎日を生きるために必死。旅をしながらNZ全国を回って旅をしたと言っているが、この生き方は全然持続的ではなかったし、賢い選択ではなかっただろうと思っている。移動ごとに新しい仕事を探さなければならないし、新しい家も必要になる。移動は大抵一人で行うし、移動中は金銭的な安定感に欠けるから、精神的に安定しない。
 こんな生活の中で生き抜くことができる自信はついたけど、今振り返ると誇りには思わない。ニュージーランドやワーキングホリデーに命を賭けているのであれば良いと思うし、なんならもっとハングリー精神旺盛にギリギリを攻めれた。命を賭けるまでは思っていなかったし、ここで燃え尽きる人生だとは捉えていなかった。

 今思うと中途半端だった。100%旅人のように、車中泊生活に振り切ったり、転々とし続ける生活をするわけでもなく、同じ都市にある程度住み込み、地域での繋がりを作るわけでもなかった。めちゃくちゃ仲の良い友達ができたという実感もないし、NZ全土を制覇したかといえばそんなこともない。ただただ模索し続けた。帰ってからのことも考えながら過ごしていたし、経済的に潤っていたわけではなかったから毎日を生きていくための生活もしなければならなかった。

 もっと現地ならではの体験を積むことを選択できたかもしれないし、もっと振り切って働き続けることもできたかもしれない。でも、この模索しながらなんとか日々を生き続けることを選択した。もちろんNZでしか出会えない人とたくさん出会ったし、たくさんの経験もできた。でも、これが結果。今あるのが事実で、当時は変えられない。

当時を振り返って

 今だからこそ、「辞めなくてよかったんじゃないか」とか「もっと経済的に安定したほうが過ごしやすかったんじゃないか」とか「一つの仕事を続けた方が深い仲になれたんじゃないか」とか色々思える。確かにと思うこともあるし、あの選択は良かったと思うこともある。その上で、これからどうするか、ですよね。

 ようやく自分のことも理解できるようになって、客観的に自分の良し悪しかわかるようになってきて、周りの目を気にした選択をしない、自立した人生を歩もうとしている。つまり、今までの人生とは全然違う人生が始まる。一つ一つの選択が自分事として捉えられるだろうし、変に人からの期待に応えようとしない。自分は自分。

 NZでワーホリしたからこそ、会社を辞めて決断したからこそ、見えたことがたくさんあると思う。後悔はないかと言えばそんなこともない。でも、過去は変えられなくて、今ある自分で次を選択するしかない。行く前は、自分の選択も自分軸で考えられなかったのが、今では自分の意思で考えられるようになっている。それだけで全然違う。軽率って書いたのは、もっと自分の意志を尊重して、もっと自分の気持ちに正直になって、体裁とか関係なく選択をするべきだったという所。これからは、自分の人生、自分の意志を乗せて選択していこうと強く思う。

参考

 NZワーホリの発信をたくさんしてきているので、そのまとめと、この経験を自分以外の所でも取り上げてもらっているので、それらをまとめておきます。もし良かったら覗いてみてください。


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