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△5 この世になにかを残す方法(希死念慮)

「どうして死にたいの?」

私はきっと結婚も出産もできないから、最期は暗くて陰気な精神病院で過ごすんだろうな、って思うんですよ。
それだったら、いま死んだ方が綺麗かな?
例えば明日、私が私を殺すという選択をしたら、きっとお母さん悲しんでくれるだろうな。お兄ちゃんも悲しんでくれるだろうな。もしかしたら、先生だって、ちょっとくらい悲しんでくれるかもしれない。
その方が、美しいかな?って考えています。

「なんで悲しんでほしいの?」

ああ、たしかに、なぜでしょうね?
助けなかったことを、後悔させたいのかもしれない。「なにかをこの世に残したい」のかもしれないです。

「なぜ『なにか』を残したいと思うの?」

それって、人間の本能じゃないですか?
みんな何かしら、自分が居たという痕跡を残すために生きている。そういうことって、ありませんか?

「もっと健全な方法でも、できることなんじゃない?」

そうかもしれませんね。考えてきます。


「なにかを残す」ということだけに注目すれば、たしかに他にもいろいろと方法があります。

  • 子どもを残す

  • 写真を撮る

  • 本を書く

  • 当事者から見える世界を発信する

  • お墓に名前を彫る


私の想像力では出てきたのはここまでですが、もっとたくさんありそうです。



数年前亡くなった祖父は
言葉にできないものを私の心に残してくれた



「生きた証」に思いを馳せ、コーヒーが冷めていく時間をゆるりと楽しんでいた午後、ふと、自分の深いところにある願望に気がつきました。



もういちど、学生に戻るのはどう?



大学時代の続きで、犯罪社会学や社会心理学でもいいし、
熊谷晋一郎みたいに当事者研究をやってみてもいい。

あのキャンパスにはつらい思い出がぎっしり詰まっているのだけれど、たくさん失敗をして自分のことがちょっとだけよく見えるようになった今なら、
それを綺麗なオレンジ色で塗りかえることができそうな気がしてきた。

社会学じゃなくても、どこか福祉系のところに行って資格を取り、
自分の問題をしっかり治したあとに人を助ける仕事に就く準備運動にするのも良いかもしれない。


なんか、考えてるだけで楽しいなあ。
夢、ひろがるなあ。


「死にたい」はなしが、いつの間にか「生きたい」はなしに置き換わっている。


「死にたいって奴は結局生きたいんだよ」とか言ってたおじさん、ふざけんなと思ってたけど、
なんか、この場合においては、その通りだったな。


あつすぎてしっぽが溶けてる

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