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中国革命同盟会結成~辛亥革命への道㉒

明治38年、欧米から日本に戻ってきた孫文は宮崎滔天を訪ねるとこう言った。

「ここ2,3年の間で支那から日本へ来ている留学生が非常に増えたそうだが、これはという人物はいないかね?」

そこで、宮崎は黄興を紹介した。

「それなら黄興という人物がいる」
「よし、それじゃあさっそく訪問しよう」

さっそく二人は末永節と同居している黄興を訪ねた。

末永と宮崎は二人を連れて鳳楽園という支那料理屋へ向かった。

初対面であった孫文と黄興は挨拶もそこそこに、革命の話を始めたかと思うと、酒や肴に口もつけずに2時間ほど議論を続けたという。

そして万歳を唱えると祝杯をあげた。

黄興は宗教仁らと協議すると、清国留学生による孫文の歓迎会を開くのを決めた。

この歓迎会には数千人の留学生が集まった。

そこで孫文が大演説を行うと、そのほとんどが革命思想に染まったという。

留学生の多くは官費生と言って清国から学費の助成を受けていた。真面目なものは、官費を貰うことが心苦しいと辞退を申し出たものがいた。

その数があまりにも多いので、学生監督は
「君たちさえ公言しなければ私は構わないから、そのまま官費生でおったらよかろう」と妥協したので『官費革命』という言葉が流行したという。

その頃、清朝を倒そうとする革命組織は主なものが三団体あった。

孫文率いる興中会(実行部隊として三合会や哥老会を含む)

黄興が中心の華興会

蔡元倍らの光復会。

その他にも小さな組織が、それぞれ違う地域で活動していた。

そうした革命組織を一つにまとめあげようと孫文らは画策した。

その準備のため、各組織の主たるものを集める必要があった。

しかし、その秘密会義を行う場所の選定に苦慮した。末永や宮崎には今だ警察の監視の目があったのだ。

それに、日本とはいえ革命組織の首領達が一同に会するのは危険も伴った。

そこで、末永と宮崎は会合場所に玄洋社の内田良平宅を選んだ。

人目につかないように孫文や黄興達の革命同志を内田良平の家に集めると、そこで中国革命同盟会が結成された。

(これをきっかけに宮崎滔天は再び革命運動に参加、内田良平とも仲直りする)

内田良平宅に集まった革命同志たちは予想より大勢で、彼らが足を踏んで喜んだので、家の床が抜けるという騒ぎが起きた。

そんな中でも「これは革命党が清朝を倒す前兆なり」と叫んで、万歳を唱えたという。


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