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福博の歴史について

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福岡、博多の歴史についてこれまで調べたり、取材したことを中心に書いています。主に江戸時代中期から近代です。
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#日本史

売春防止法と消えた遊郭

昭和23年6月、最初の売春防止法が議会に提出されますが、審議未了で見送られます。 その後は5回も国会に提出されましたが、日の目をみることはありませんでした。 昭和31年5月になって、やっと売春防止法が可決されます。 この8年間の間、法案を通そうとする者と、阻もうとする者の間に、激しい闘争が繰り広げられました。 法案が提出される度、赤線業者は反対運動を展開。 その反対運動は、全国性病予防自治会という名前で行われました。毎年行われる総会には、九州からの参加者がもっとも多

戦後の闇芸者

戦争が終わっても、物資の統制は続けられていました。しかし、戦時中と異なるのは、闇市にあらゆるものが出回り始めたことです。 そのうち飲食店も復活、昭和20年12月には博多高等料理屋組合の会員は58軒まで増えています。 酒、料理とくれば次は女と行くのが男の常ではあります。 元芸妓達は許可がなくても働きはじめます。 そんな彼女達は闇芸者と呼ばれました。 戦前に発令された高級享楽停止令は解除されておらず、違法だったのですが、福岡では独自の見解で芸妓を宴妓と名を変えて認めまし

公娼制度の廃止と赤線地帯

昭和21年1月21日、GHQは公娼廃止の覚書を送ります。 それを受けて日本政府は公娼制度の廃止を決めます。 秀吉によって始められた公娼制度、遊郭の歴史はこうして廃止になりました。 しかし、政府は売春婦の営業継続は黙認する方針をとりました。 公娼は禁じられたが、私娼は認められていたのです。 当時、福岡の警察署長は娼妓達を集めてこう訓辞をしたそうです。 「公娼は廃止になりました。あなた方は自由です。いつ郷里に帰ってもかまいません。しかし、今まで楼主から金を借り、世話に

終戦後の柳町、その2

1945年8月15日に降伏した日本政府は一週間も経たない内に全国に進駐してくるアメリカ兵相手の慰安所を作ることを決め、その為の補正予算を計上しています。 一般女性の純潔を守るため、娼妓達をその防波堤にするという名目でした。 アメリカはキリスト教文化圏であり、日本を民主化するという大義名分があったので、アメリカ側から慰安所の要求は公式には行われていません。 ただし、横浜遊郭の例はあります。 (開国条件の一つとしてハリスが、水夫達の慰安施設を要求。横浜に遊郭ができたと言われ

終戦後の柳町遊郭

日本が降伏した昭和20年8月15日の午後、福岡県庁では終戦処理打合せが行われました。 その席上で西部軍の参謀が 「18日にはアメリカ軍の先遣隊が博多湾から上陸してくる。その前に婦女、子供などの非戦闘員を避難される必要がある」と報告をします。 この報告を受け、福岡県庁では女性職員を避難させることを決めました。 この情報が漏れ、その狼狽が一般市民の恐怖をよび、16日から避難騒ぎで福岡の町は混乱しました。 アメリカ兵が上陸してくれば、男は殺され、女は強姦されると教えられて

戦争前後の柳町

博多の遊郭、柳町では満州事変に突入した昭和6年頃から経営に見切りをつける楼主が出てきました。 経営者の変更が相次ぎ、昭和14年には娼妓数も350名まで減少しています。 占領地が拡大していた時期には、内地に見切りをつけて大陸(満州)に渡った人も大勢いたようです。 昭和15年には料理店の米使用禁止。奢多享楽抑制と言われ、昼間の遊興は禁止、料亭は5時いこうでなければ、営業できなくなります。 昭和16年、大東亜戦争に入ると廃業者が続出。柳町でも空家が目立つようになります。空い

芸妓の資格と学校

大正時代、芸妓の数が急増すると、当然ですが芸ができない者もでてきます。 中には三味線が引けないので座敷に出ると音楽をかけてダンスをする芸妓もいました。 憂慮した券番側は、芸妓になるための試験を実施して、合格したものに免許を与えることにしました。 この試験の試験官は警察署長、券番取締役だったそうです。 しかし、この試験決して厳しくはなく、長唄を四分の一も弾けば合格していたそうな。 大正5年に中州券番から分離する形でできた博多券番ですが、財政にいきづまると昭和10年に南

遊興税

遊興税とは、料亭や遊郭での遊びに課せられた税金です。 大正8年、福岡の議会は満場一致で宴席消費税と呼ばれる遊興税を可決しました。それにより一人一回二円以上遊ぶと、5%の税金がとられることになったのです。 これに驚いた料理屋組合は、一致団結して遊興税反対同盟会を結成します。 しかし、国の内務省でも、大正9年に遊興税が認可されます。 これにより、博多の遊郭、柳町の客足も一時は遠のいたそうです。ですが、すぐに客足は戻ったようで税金に慣れてしまうのは、今も昔も変わりませんね。

女買いの虎の巻

女衒と呼ばれた遊郭に女性を売る者にも一種のマニュアル的なものがありました。 昭和に入ると、世界恐慌の影響を受け日本の不況は深刻化。物価も下がり始めます。 しかし、遊郭への身売りは減少していました。 不況になると身を売る女性は増えそうなものですが、娼妓は法律により18歳以上しかなれなかったので、もっと手軽な15歳からなれる酌婦になる女性が多かったのです。 娼妓の不足に困った業者は、地方へ女買いへ出かけて行きます。 この時代でも、店の売り上げに直結するのは、やはり女性の

売春王国と呼ばれた福岡

明治時代から遊郭で働く娼妓は公娼であり、税金がかけられていました。 県議会で税金を上げる提案がされ、可決されされることもあったそうです。(議員が全員男だった時代です) しかも、その税収入は貞淑を教える女学校の教育費に当てられていたりしたとか。 (世界中で、娼妓から税金(賦金)をとる国は当時、日本だけだったそうです) 日清、日露戦争を経て貸座敷業者と呼ばれた妓楼の経営者は(楼主)は多額の税金を納める高額納税者となります。 この頃、福岡は売春王国と呼ばれていたそうです。

遊郭の写真見世

明治34年の春、警視庁は張見世を禁止しました。 張見世とは、外から見える赤い格子の部屋に娼妓が控えていて、お客が相手を選ぶ方式です。 福岡の遊郭、柳町でも格子に幕を張り、道から覗かれないようにしました。 しかし、夏になると暑いし、衛生上よくないと抗議があり、娼妓の遊郭内での自由歩きを許すようになります。 すると、娼妓達は自分で客を捕まえてくるようになりました。 それが、客のはげしい争奪戦になり、事件が起きると、いつのまにかもとの張見世に戻ってしまいました。 柳町が

遊郭のイベント

大正元年、移転した新柳町は、お客を呼ぶためのイベントとして明月大法会を開きました。 明月とは博多三名娼と呼ばれた昔の柳町の有名人です。 このイベントは9月18日から5日間行われ、模擬寺院を建てて明月を祀り、僧侶を招いて供養し、芸妓の踊りなども奉納しました。 この時代、遊郭では積極的にイベントが行われています。 開通した電車とタイアップし、夏には納涼電車が走り納涼場が開かれたり。 野外演奏場で音楽会や博多にわか、踊りが行われたり。 広場では草競馬、自転車競走が行われ

娼妓の給与形態(年季制度)

明治33年に改正された娼妓規制法による年季制度では、着飾って待機していれば、お茶を挽いても(客がつかなくても)借金額を年季日数で割った額が毎日借金から引かれました。 5年の期限で1000円を借りると、1826日(5年)で割った54銭8厘が毎日借金から引かれる計算になります。 ただし、病気や外出で稼ぎのない日は減額されません。 性病で入院した場合は、入院日数の半分は稼いだものとして認められたそうです。 そして一ヶ月間の売り上げの8%が月末に現金で渡され、小遣いとなりまし

花柳界の迷信

大正時代に栄えた花柳界ですが、そこでは様々な迷信が生まれました。 今回それを紹介します。 1、料亭や女郎部屋では、敷居に清めの盛り塩を置く。もし客が知らずに内に蹴りこんでくれると客が多く、反対に外へ蹴りだすと客足が少ない。 2、門口や格子戸に膏薬をはられると、客がこなくなる。 3、茶はチャと呼ばず、ブブという。女郎が茶をだすときは、まず初めに必ず自分の茶碗に注ぐ。 4、客がないときは、荒布(アラメ)の汁をふりまいて客寄せのまじないとする。 5、ステッキのさきで格子