売春防止法と消えた遊郭

昭和23年6月、最初の売春防止法が議会に提出されますが、審議未了で見送られます。

その後は5回も国会に提出されましたが、日の目をみることはありませんでした。

昭和31年5月になって、やっと売春防止法が可決されます。

この8年間の間、法案を通そうとする者と、阻もうとする者の間に、激しい闘争が繰り広げられました。

法案が提出される度、赤線業者は反対運動を展開。

その反対運動は、全国性病予防自治会という名前で行われました。毎年行われる総会には、九州からの参加者がもっとも多かったそうです。

昭和31年には売春防止法阻止のため、全国の赤線の業者、従業員、10万人が自由民主党に入団する計画まであったそうです。しかし、一般人からの批判が強く、自由民主党側も拒否しました。

反対していたのは男だけではありませんでした。赤線地帯で働く女達も全国接客女子従業員組合連盟を結成し、既得権を守れ、生活を奪うなと、関係官庁に陳情したのです。

しかし売春防止法は昭和31年に可決され。妓楼は昭和33年4月までに、転業、もしくは廃業するように決められました。

福岡は常に売春防止法反対、廃娼反対の先鋒にたちました。

戦前には池見辰次郎、戦後には石田清という人が代表だったそうです。

全国的にみて、九州は警察の取り締まりがゆるく、遊飲税の割り当ても安かったので、彼らはお金も持っていました。

福岡では売春業界から、県議会議員、市会議員、司法保護司、民生委員、PTA役員や町会役員を多数送り出しています。

その為、政治力が高く警察や役人まで動かしていたのです。

現在では考えられないことですが、地域社会も売春業者を有力な企業家、資産家と捉えていたのです。

売春防止法の全面発行されたのが3月31日。

その半月前3月15日夜11時をもって遊郭の営業が打ち切られました。

博多の新柳町でも、15日の昼、組合事務所で解散式をあげます。

その夜は、最後の柳町を見ようと見物客が大勢集ったそうです。

その後、昭和37年8月には町名も清川町と改められ、350年におよぶ柳町の名は地図からも消えていきました。


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