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芸妓の資格と学校

大正時代、芸妓の数が急増すると、当然ですが芸ができない者もでてきます。

中には三味線が引けないので座敷に出ると音楽をかけてダンスをする芸妓もいました。

憂慮した券番側は、芸妓になるための試験を実施して、合格したものに免許を与えることにしました。

この試験の試験官は警察署長、券番取締役だったそうです。

しかし、この試験決して厳しくはなく、長唄を四分の一も弾けば合格していたそうな。

大正5年に中州券番から分離する形でできた博多券番ですが、財政にいきづまると昭和10年に南新地に移転し、東券番と名前を変えます。

さらに、当時では大金の1万4千円をかけて、洋風券番を新築しますが、戦争の深刻化と警察署の斡旋もあり、結局中洲券番と合併しました。
(この合併のとき、芸名が被っていた芸妓がたくさんいて、問題になったそうです。
結局、届出の早かったものに芸名の優先権を持たせることで解決したそうな)

合併した後にも中洲演芸学校を設立して、芸妓の修行をさせました。

2年間、長唄、舞踏、鳴り物、礼儀作法、修身を学び、卒業すると試験なしで芸妓になれました。

今でいう専門学校のようなものだったようです。

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