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戦争前後の柳町

博多の遊郭、柳町では満州事変に突入した昭和6年頃から経営に見切りをつける楼主が出てきました。

経営者の変更が相次ぎ、昭和14年には娼妓数も350名まで減少しています。

占領地が拡大していた時期には、内地に見切りをつけて大陸(満州)に渡った人も大勢いたようです。

昭和15年には料理店の米使用禁止。奢多享楽抑制と言われ、昼間の遊興は禁止、料亭は5時いこうでなければ、営業できなくなります。

昭和16年、大東亜戦争に入ると廃業者が続出。柳町でも空家が目立つようになります。空いた妓楼は貸し出され、徴用工の宿舎などになっていたそうです。

昭和19年には高級享楽が停止され、料亭は全て休業しました。

しかし、柳町だけは軍の慰安所として営業を許可されていました。柳町で一夜を過ごした翌日、南へ飛び立ち、二度と帰らない兵隊も大勢いたそうです。

娼妓達も翠糸学校の二階で、銃後の勤めと軍用食の袋はりなどをしていました。

戦争がひどくなると娼妓も芸妓も急激に減少します。残った芸妓達は国防婦人会として、街頭募金や銃後の奉仕に駆り出されました。

昭和17年から18年にかけては券番も解散命令を受けます。

18年3月で博多の芸妓は姿を消しました。身の振り方が決まらなかった芸妓は、九州兵器工場の下請けとなった券番楼で、飛行機の一部を作っていたそうです。

昭和20年6月19日の福岡大空襲では、焼夷弾の第一弾は柳町を襲い、10軒の妓楼を残して全焼しました。

しかし、生き残った娼妓達は、空襲の翌日から焼け残った妓楼に間借りして、営業を続けたそうです。

広島に原爆が落ちてからは娼妓を解放する店もありました。

しかし、9軒の妓楼は8月15日まで営業を続けたそうです。


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